特集「温故創DX」古きをたずねてDXを創る 能楽編

「伝統」は絶えざる「革新」の賜物。いつの時代も努力と工夫、イノベーションを繰り返し、時に大胆な変化をも受け入れ淘汰されることで、この国の伝統文化は形作られてきました。「温故創DX」では、連綿と続く伝統文化の担い手と技術の最先端に立つ人々との対話から、旭化成が目指すDXを用いた新たな価値の創造について考えます。
第1回は、能楽師で人間国宝の梅若実桜雪さんをお招きします。今でこそユネスコ無形文化遺産にも登録された能楽ですが、現代に至るまでの歩みは平坦ではなく、浮き沈みと「変革」を繰り返す歴史でもありました。

【ダイジェスト編】能楽。変革の650年人間国宝・梅若実桜雪と考える、変革のDNAとは
能楽師 梅若実桜雪 ×工藤幸四郎 ×久世和資
【前編】能楽。変革の650年人間国宝・梅若実桜雪と考える、変革のDNAとは
能楽師 梅若実桜雪 ×工藤幸四郎 ×久世和資
【後編】能楽。変革の650年人間国宝・梅若実桜雪と考える、変革のDNAとは
能楽師 梅若実桜雪 ×工藤幸四郎 ×久世和資

今回の鼎談メンバー

代表取締役社長 兼 社長執行役員工藤 幸四郎
取締役 兼 専務執行役員デジタルトランスフォーメーション(DX)統括久世 和資
能楽師梅若実桜雪

伝統の継承と変革

久世

当社は2022年5月に創業100周年を迎えました。その間さまざまな出来事がありましたが、今、業界の変動、世界や社会が変化していく中で、それに対応する変革を求められています。旭化成は100年ですが、伝統芸能である「能楽」は確立して数百年という歴史があります。先達の伝統を守りながら、さまざまな波風を乗り越えて変革をしてこられた、そういう歴史、経験に学びたいと思い、今日こちらの梅若能楽学院会館にお邪魔しました。
その中でいろいろな御苦労があったかと思われますが、特に明治維新の頃に激変する社会で初世・梅若さんがかなり大きな変革を推進されたのでしたね。

梅若

はい。伝統を継承するのは当たり前のことだと、父や祖父から言い聞かせられました。伝統芸能というのは、歌舞伎もそうですけれども、時代を経ても一見やっているのは同じようなことなんですよね。新しくしようと思うのですが、ならない。それが伝統の強さ、伝統の重みです。伝統はそんなに生半可なものではないのですね。
だからといって、伝統は古くさいものだというのは大きな間違いです。今僕らが生かされているのは、伝統の力による部分が100%と言ってもいい。伝統をいかに現代に甦らせ、継承していくかが重要だと思うんです。
私の曾祖父である3代前の梅若実は、明治維新で能の歴史が途絶えそうになったのを阻止し、能を復興させた人です。曾祖父がすごかったのは、能の家の人間ではなかったことです。上野寛永寺御用達の札差(武士の俸禄米を換金する業者)の家に生まれたんですね。そういった商家の子が、いきなり180度違う能楽という伝統を継承する家に養子として入ってきてしまった。能楽界に突然現れたといってもいいでしょう。
結局、曾祖父の何が良かったのかといえば、それまでの能役者たちというのは経済のことなんて一つもわからない人間ばかりだったんですね。そこに曾祖父のような金銭的な感覚を持った人間が現れたことによって、伝統の世界にやっと経済というものが入ってきた。そして今の興行のノウハウを作った。それによって能が甦り、明治以降、今まで続いているんだと思います。
だから、古いといっても百数十年の時しか経っていないわけで、今後どういうふうに続けていくかということのほうが、大変な気がしているんです。

初世・梅若実は1828年、日光山御門跡輪王寺北白川宮御用達の鯨井平左衛門長男として、神田銀町に生まれました。9歳の時、跡継ぎとなる男子がいなかった51世・梅若六郎家の養子になり、12歳で家督を相続しています。

100年事業を続けることよりも、今何の役に立っているか

久世

我々旭化成も似たような変革を100年の中で行ってきましたね。

工藤

当社は野口遵(したがう)という者が創業したのですが、野口は100年の企業を作ろうと思ってスタートしたわけではないんじゃないかと、私は想像しています。
その時に事業を起こそうと思った“野心”というんでしょうか。世の中のため社会のために何か役立とうと志し、今その時に何をすべきかを考えてやり始めた事業であって、それがちょうど今100年経ったということだと思います。
発電事業から始めて、それから肥料や繊維、戦後の高度成長を迎えいろいろな事業を作り出し、あるいは導入してやってきましたが、90年続いている事業もあれば、その途中で残念ながらやめた事業もあります。けれど、そのたびに新しいものに変えていく。事業はそれを繰り返しながら進んでいくものだと思うんですね。

梅若

なくなったものも無駄ではないのでしょうね。それがあったからこそ逆に「新しい」という感覚もあるわけですよね。

工藤

はい。我々たかだかまだ100年で、これからさらに100年、200年続けようという思いも大事なのですが、一つ一つのビジネスが今社会にどうやって役に立っているかということを常に頭に入れて一歩一歩進み、ふと気が付いたら10年あるいは100年経っているというような形が、我々がやるべきことではないかな、というふうに強く思っています。

初世・梅若実の能楽へのこだわり

久世

先ほど初世・梅若さんが能に経済を持ち込んだというお話がありましたね。具体的に興行の仕方をどのようにして変革されてきたのでしょうか。

梅若

とにかく明治になって、将軍というものはいなくなってしまったわけです。武家に支えられていた我々能楽師はどうしていいかわからない苦境に陥って、静岡に隠棲(いんせい)した徳川慶喜についていく能楽師もいましたが、うちの曾祖父のように江戸に残った能楽師もいました。
曾祖父がなぜ江戸に残ったのか、その辺はよくわからないのですが、いくら幕府が崩壊したとはいえ、自分たちの目指す能は江戸にあるんだと考えていたのでしょうね。その当時関西の能楽は、大阪、京都などにありましたけれど、江戸とはほとんど交流がなかったと思うんです。
その時にうちの曾祖父は本当に何もすることがなくなって、編笠をかぶって門付(かどづけ、人家の門口で雑芸を演じたり経を読んだりして金品を乞うこと)をしたっていうんですよ。
身内のことですが、僕は偉いなと思います。門付ですからお金も頂戴するのでしょうけども、そんなことはどうでもいいと。謡(うたい)というもの、能というものはまだなくなっていない、まだこの世にあるんだということを示したんですね。
本当に興行なんていうものが一切すべてなくなったわけですからね。もう能がなくなったも同然という状況だったわけです。

岩倉具視とともに能楽を復活

梅若

その状況を変えた一人に岩倉具視の存在がありました。うちの曾祖父のお弟子さん関係だと思うんですけれども、たぶん岩倉と親しくしておられた方を通して、曾祖父は、これからの能はどうしたらいいのかと相談に行ったらしいんですね。
そうしたら岩倉が「日本には“国楽”がない」と。国楽、要するに国の芸ですね。だから能を何とかしようという提案があったそうです。それにはまず、その当時のことですから天皇陛下にご覧に入れるのが一番いい、と。
そして天覧能(天皇が御覧になる能)というものができました。
曾祖父はその仕切りの一切を任せられて、各御流儀のトップの方を次々と呼び寄せて天覧能に出し、能は健在であるということを世に示したらしいんですね。
うちのお家っていうのは別に家元でもない、ただの一介の能楽師です。だから非難とまではいかないでしょうけれど、相当いろいろと言われたようです。でも、そんなこと言っていたら能はなくなってしまうということで、うちの曾祖父はひるまずに続けたんです。

久世

本当に天皇陛下にお見せする天覧能が、結果的に能を日本の伝統文化として広く知らしめたわけですね。

梅若

その当時はまだ一般の興行は入場料を取って行うまでに至っていなかったんですね。それがどういう経緯でいただけるようになったかというと、実は各お家で能をしますとね、お腹がすくので何かお客様にお出ししようということで、お饅頭やお蕎麦を各お家が工夫してお出ししたらしいんですね。そうしたら、お客様が「能を見せてもらった上に食事まで出してもらっては……」となにがしかのお金を置いていってくださった。それが始まりなんですね。

久世

それはある意味イノベーションですね。

岩倉具視は明治維新の功労者として国家最高の権力を握っていたともいえる存在です。天覧能は岩倉具視邸にて明治9年(1876年)4月4日から6日の3日間行われました。
英照皇太后・明治天皇・昭憲皇太后を招き、東京の能楽師たちを集めて庭園の仮設能舞台で行った催しは大成功に終わり、以後、天皇臨席の宴には必ず能が演じられる慣習が確立しました。

新しいものを生み出すためのステップ

久世

演目自体も以前とは少し変わってきたというようなお話を伺いました。

梅若

はい。能が生まれてから500〜600年経っているわけですが、今残っている演目は3000曲ぐらいあります。けれど、そのうち現在も演じているものはだいたい250曲程度です。それだけ演じられなくなったということは、時代を経てどんどん新しくなっているということなんですね。
だから、伝統芸能と言われていますが、受け継ぐだけではなく、駄目なものは駄目と切り捨てていく勇気のようなものがあった気がするんです。古いものに取り憑かれていてはいけない、なくなったものの良さもわかった上で新しくしようというのが能の新しさだと思うんですね。

久世

駄目なものは勇気を持って切り捨てるというのは、事業や経営にも関係することですね。単純に事業の切り捨てという意味ではなくて、それまでの事業のやり方を変えてきた、そういう歴史も当社にはあったかと思うんです。

工藤

そうですね。先ほど少し申し上げましたけど、当社の100年の歴史の中で、キュプラという繊維素材のブランドである「ベンベルグ」は90年続いています。でも90年間順調に続いてきたかというと決してそうではなくて、やはり新しい分野や新しい用途を探って、いろいろな改革をしながらようやくここまで来たわけです。
着物の裏地(胴裏)、あるいは舞台の緞帳(どんちょう)とか、民族衣装など、そういう歴史的なものの素材にも「ベンベルグ」は使われていますが、最近では若い女性や男性の普段着の衣料にも使われていますし、常に道を探って変革を続けてきたんですね。
「ベンベルグ」は上手く続いてきた良い例ですが、しかし中には非常に厳しい環境の変化に対応できない素材もあります。それを辛抱してやり続けていっても新しい芽が出てこないんですね。新しい芽を生み出すために撤退することもあるでしょう。残念なことではありますが、それは未来に新しいものを生み出すための一つの大きなステップでもあると思っています。

梅若

そのとおりですね。

変わらないけれど自由な能装束

久世

今、舞台に素晴らしい衣装が飾られていますね。こちらは江戸時代の装束(しょうぞく)ということですが、能においてこの装束の持つ意味合いや役割はどんなものなのでしょうか。

梅若

この装束は唐織(からおり)という織り方なんですけれども、何に使うかと申しますと、女性の着物ですね。女性といってもお姫様とかいろいろな女性がいます。ところがこれはどんな女性にでも使えるんです。極端に言うと、女性だけとも限らない。男性が着て演じてもいいようなものもあるわけです。ですから自由ですね。
時代劇では、この時代はこういう着物と限定されますけれど、能の場合そういうのはないんです。この唐織一枚で、何百年前の人の役も全部できるという、ある意味で非常にシンプルなものです。
たとえば、我々が着るスーツも基本の形は変わっていませんよね。基本が一つあって、それを少しずつ変化させていくことによって新しさが出てくる。この唐織も仕立て方は何百年と変わっていないんです。着付け方もほとんど変わりません。古い絵を見ると、多少今とは違うところもありますけれども、基本的には同じ着付けなんです。
そういうと能装束の選び方は楽なことのようですが、逆に難しいところがちょっとあるんです。決まったものはなくて演じる人の感覚によって選ばれますので、その人のセンスがわかる。舞台を見ればその人のセンスの善し悪しが装束の選び方ですぐわかってしまうんです。

工藤

なるほど。江戸時代から明治維新以降の御苦労された時代、さらに昭和へと、そういう時代の激動や変遷の中でも、能装束の基本というのは大きくは変わっていないんですね。

梅若

全然変わっていないと言っていいと思います。着付けの形が時代によってはふわっと着ることがあったりとか、違いはその程度です。

工藤

演目が変わってもやはり衣装(装束)の基本は変わらないんですか?

梅若

変わりません。それがやっぱりすごいところというか。逆に言ったら不器用であり、また良さですね。僕なんか「お前は器用だからダメだ。もっと不器用になれ」なんてよく言われました。器一つとってもそうだと言うんですよね。なんか使いにくそうな器だけれども使ってみると素晴らしい、それと一緒だと教わりました。

古くは公家や武家の日常の着物を用いて演じていたと考えられる能装束が、現在伝えられているように華麗で豪華になったのは、時の権力者、室町時代なら足利義満、江戸時代なら諸大名の好みの反映だとされています。
演能に対する報酬として貴族や武家から衣を下賜(かし)されるというシステムもあり、能楽師たちは当時、大陸からの舶来品であった高価な衣装を手にしていました。
特に絢爛な唐織は、もとは唐から伝えられた美術織物ですが、綾織(あやおり)の地に金糸や銀糸、色鮮やかな糸を使い、立体的な絵柄を織り出します。
ほかにも刺繍と金銀箔をこすって模様を出す「縫箔(ぬいはく)」、単衣(ひとえ)に金糸・銀糸で描く「長絹(ちょうけん)」など、美術工芸の粋ともいえる染織の技術を用いて季節の草花などの日本の自然や文様が描かれました。
能装束は写実を表現しないので、たとえ貧しい役柄でも装束は華やかで、それが能を能たらしめる大きな要素となっています。衣装のコーディネートや着こなし方で役柄や心情が表現されています。

「ベンベルグ」と能衣装の共通点

久世

一方、右の衣装は「ベンベルグ」で作ったものですね。

工藤

これは女性用の生地です。ただし見ていただけるとわかるように、日本の女性用に作った生地ではなくて、インドの女性用の生地なんですね。インドでも昔から脈々と受け継がれた民族衣装が今も着られています。
「ベンベルグ」自体は先ほど申しましたように90年の歴史があるんですが、インド向けにビジネスがスタートしたのは、実をいうと1976年なんですね。この生地もインドで作っていただいています。我々日本のスタッフがインドの産地の皆さんと一緒に工夫し、どういうふうに織り込んだらうまく織れるか、我々の「ベンベルグ」の糸の特徴を説明して、試行錯誤しながらこの四十数年間作り上げてきたものなんです。
まだまだ歴史は浅いのですが、ただ、インドの伝統的な民族衣装に素材として使われているということに我々も非常に誇りを持っています。特に、この素材はシルクに非常によく馴染むということで使われているようなんですね。
これと能装束とではもちろん時代も国も違うのですが、今日改めて能装束を拝見してもう一度「ベンベルグ」を見ると、この色使いや、光沢の部分など両者で共通しているものがあるんじゃないかなと思いました。
この赤っぽい生地など触った感じや生地の厚み、光沢も、能装束に非常によく似ています。

梅若

(手で触れて)しっかりしていますよね。今おっしゃったように似たようなものがいずれ本物になってしまう。それがこういうもののすごさだと思いますね。

工藤

ええ。だから今日、能装束を拝見させていただいて、「ベンベルグ」の歴史と共通する輝きがあるように感じました。僭越ですが、能装束に「ベンベルグ」を少し使えるかなという印象を持ちました。

梅若

なるほど。模様にしてみてもいいですよね。模様というのははっきり国別で違うということはないんですよ。うちの装束でも中国風のものもありますし、インド風のものもありますしね。能装束はそのへんは自由だと思います。

工藤

世界の国々からいろいろなものを輸入し、それを日本風に変えていき、インドならインドの文化に馴染むように変えていく。素材は同じものを使いながらも、いろいろその土地土地で工夫し、研究しながら変えていくのが日本の歴史ですからね。

梅若

それが僕は日本人の良さだと思う。やっぱりいろんな“〜ふう”というものを何か直感的に感じ取って作れるのは日本人ですよね。

工藤

おっしゃるとおりだと思います。

新しいものを取り込む勇気

梅若

やっぱり、これから新しい素材の衣装も作っていかないといけないと痛感しています。もう現代では装束を作る人は減ってしまったんです。それでなおさら、みんな従来のものが一番いいと、もう思い込んでいるわけですよ。
でもそうじゃなくて、こういう新しい素材もあるんだという衣装を作っていかなくちゃいけない。それにはやはり作り手もですが、使う側が自らもっと新しいものを開発し、使っていかないと本物になっていかないでしょうね。

工藤

おっしゃるように、こういう生地を使って作る技術とは、人そのものだと思います。新しい素材を使っても出来上がったものは従来と同じように見え、しっかり伝統が引き継がれているという形が理想ですね。

梅若

今、能装束の作り手は養成すれば、まだ何とかなるんです。けれども糸そのものはなかなか難しいですね。僕の知っている能装束のお家もこれからどうしようと今四苦八苦していらっしゃいますよ。なかなかやり方を切り替える勇気は持てないのでしょうけれども、これからは勇気を持たないとだめです、本当に。

工藤

先ほどからお話ししている「ベンベルグ」も、実を言うと、ドイツから技術導入をしたものなんです。導入当初は非常に苦労をしましたが、やはり日本人の力でしょうか。ようやく糸を作りあげ、今度は糸を生地にし、製品に向いた糸や生地にする試行錯誤を繰り返して、行ったり来たりしながらやっと完成に繋がったんですね。そして戦後は、石油化学の技術を導入し、そこに我々の触媒の技術を加え、世界に負けない石油化学事業を作り上げてきました。
そうやって新しい技術を導入し、それを自分たちの力と工夫で発展させてきたというのが旭化成の歴史なんですね。ただ、これからはなかなかそれだけでは事業の発展は進まない。
最近、産業の垣根が低くなってきたというふうに言われていて、化学業界と自動車業界、あるいはコンビニエンスストアと化学業界とか、異業種が繋がり合って新しいビジネスモデルを作っていこう、新しい商品を生み出していこうという潮流があります。
幸いにも、当社は「ヘーベルハウス」などの住宅、あるいは医薬品、石油化学製品、繊維、樹脂など、いろいろなものをつくっているわけですね。旭化成の中にいろいろな産業が入っているといっても過言ではないと思います。
まずはそれらの産業・事業の垣根を低くして人が横に繋がり合い、新しいビジネスモデル、新しい素材、新しい事業や商品を作り上げていくことがこれからの大きな課題だと思っています。

DXで垣根を取り払い、新たなコラボレーションを

工藤

今日、デジタルトランスフォーメーション(DX)の責任者として久世が同席していますが、このDXが旭化成のこれからを生み出す横の繋がりを作ると考えているんですね。DXで事業と事業の垣根を低くして、個々のデータをやりとりしながら新しいビジネスを作りあげていく。DXは非常に大きな武器にもなるので、それを十分に生かしていきたいと思います。
そしてほかの会社とも繋がり合って、どうすれば日本全体が強くなっていくかということにも心を砕き、進めていきたいと思っています。当社にとってこれからがチャレンジだと思いますね。

久世

DXは「デジタル変革」と訳しますが、「デジタル」は手段であって、デジタルによってどう「変革」をしていくかのほうが重要なんですね。
我々も今、他の組織と一緒になって、情報・データを共有して新しいことをやる、あるいは企業の壁を越えて協業していくといったコラボレーションに力を入れているのですが、能においてもそういうコラボレーションがあったのでしょうか。

梅若

はい。いろいろとお話もいただきますし、それぞれ思うことはあるんですけれども、いずれにしても今の時代それがもう当然なわけですよ。別に特別なことじゃない。そういう意識でやればできないことはないと思うんですね。
たとえば、ちょっと話がずれるかもしれませんが、最近は能における「音」にしてもテレビなどの場合、先に音を録音してしまい、本番は音源を流してやっているんです。その方が音が良くて、特に屋外でやる時には生の音よりも断然いいんです。
生だと何かしょんぼりしてしまう……というか。単純に音を大きくすればいいとか、そういうことでもないんです。生では言葉そのものが伝わっていないとわかり、これはいかんと思って、先に音を録って、それを舞台で流してやってみたらすごく評判がよかった。今までの何倍も(笑)。

工藤

そうなんですか。

梅若

言葉がもう明快に観客に届きます。これは能にとってたいへん大きな変革なんですね。私たちもびっくりして「これからもう生じゃできないね」なんてことまで言っていたんですけれど、でも、それぐらいの驚きでした。
だから、いろいろ新しいお話を随分いただいたりしますので、これからもチャレンジしていこうかと思っています。

梅若氏は音源やビデオテープで能楽を学ぶことについて、初めは否定的だったといいます。稽古が平面的になるからというのがその理由でした。
しかし、機器の進化で音がリアルになり、あたかもその場で声が聞こえているかのような環境が整った時、「録音もあり」と考えを切り替えました。
現在、梅若会では立体音響のスピーカーを設置し、音源での稽古の可能性も模索しています。声の奥行きまで再現できるようになり、良い学びが得られるそうです。伝統的な芸能の世界において稽古の仕方も確実に変わってきているのです。

大切なのは、失敗を恐れない勇気と失敗を許す風土

久世

今のお話は意識的に新しい技術を取り入れて変革していくということですね。
DXの変革で必要なのはコラボレーションと、それからやはり組織風土で、人の考え方やモチベーションが変わっていかないと、なかなか大きな変革はできないかなと思っています。そのあたりについてはいかがでしょうか

梅若

それは勇気を持ってやるしかないと思うんです。その決断ができるかできないかということなんでしょうが、もう破れかぶれで決断しちゃえばいいんですよ(笑)。失敗を恐れたら何事も生まれないですね。

工藤

それは大事ですよね。失敗を恐れないっていうのが一番重要じゃないかと、私も思います。

梅若

僕は祖父の性格を受け継いでしまったようで、失敗をあまり気にしません。「失敗を恐れて何かできると思ったら大間違いだ。失敗からいいものが生まれることのほうが多いんだ」と、小さい頃から祖父にはもう懇々と言われてきたんです。

工藤

そうなんですね。我々の組織でも「チャレンジしろ、チャレンジしろ」と社内では言うものの、なかなか物事が進まないケースもあります。要は失敗しても「もう一回やってみろ」という会社の風土がないことには、いくら「チャレンジしろ」と言ってもチャレンジしにくいんです。まさに今おっしゃったように、失敗しても大丈夫だからという考えが大事ですね。

梅若

「失敗したらそれで終わり」という考え方は結構蔓延していますからね。

工藤

相撲でいえば、8勝7敗の勝ち越しより、5勝10敗とか3勝12敗とかでも、その5つか3つの勝ちの中に大金星が一つあったら、それでいいわけですね。

梅若

それも実力です。

工藤

やっぱりそうですね。失敗を恐れずにチャレンジすることは、本当に大事だなと改めて思います。

梅若

そういうふうにありたいですね。

思いきった海外とのコラボレーション

久世

「デジタル変革」において社外・社内で事業や会社を越えてのコラボレーションが重要なわけですが、梅若さんのこれまでの活動でいえば、たとえばギリシャ人の演出家による能のギリシャ公演なども海も越えたコラボレーションですよね。国内にとどまらず、海外においてもそういうコラボレーションをすることをどうお考えですか。

梅若

他の分野のアーティストと同じ舞台に立つコラボレーションも随分やってきましたが、最初にお話を受けた時というのは、何も考えずに「はいはい」っていうわけにはいかない。すぐに返事しないで、ちょっと時間を置くんです。それによって自分自身を冷静にするんですね。
時間を置かずにその時の雰囲気だけで乗っていくのも悪くはないんですが、僕の場合は、そのコラボレーションが能のためになるかどうか考える。細かいことは考えずにそれだけ一瞬考える。それでお話ししているうちに「じゃあ、やりましょうか」っていうことになるんですよね。
もちろん全部納得がいってやるというのはちょっと難しいところはあります。時間的なこともある。バレエのマイヤ・プリセツカヤさんと一緒の舞台をやった時のことですが、マイヤが「梅若さんこれできる?」っておっしゃったので「できます。一遍も合わさないでやりましょう」って。

工藤・久世

なるほど……。

梅若

どこを何するとか言っていたら何もできないんです。だからマイヤに言ったのは「マイヤはマイヤの思うとおりにやってください。僕は僕の思うとおりにやりますから」と。上手くいけばいいものができると僕は確信していました。そうしたらその舞台はものすごく評判が良かったんです。その分緊張もしましたけれどね。
ただ、そういった緊張感というものも、また大事なんです。能の世界だけで何十年もやっていると、だんだん緊張感がなくなってしまうことも確かなんですね。だから別の何かから刺激を受けるということの大切さというのはあると思います。

久世

そういう意味では、今回、我々と鼎談させていただくことについても、一旦引いて考えられたのでしょうね。

梅若

やっぱり僕らにはない世界のお話も伺えるので、そこから繋がっていけることもあるんですよね。今日はまさにそうでした。将来を楽しみにしております。

工藤・久世

本日はどうもありがとうございました。

梅若さんが言う「失敗を恐れない」という言葉は、これまでご自身が行ってきた数々の公演に裏付けられています。新作能では瀬戸内寂聴作『夢浮橋』、美内すずえ原作『紅天女』(くれないてんにょ)、堂本正樹作『空海』、山本東次郎作『伽羅沙』(がらしゃ)・『大坂城』、馬場あき子作『額田王』(ぬかたのおおきみ)、村上元三作『覚鑁』(かくばん)。ここでも例に挙がっているギリシャのミハイル・マルマリノス演出『ネキア』など。
またアメリカ、フランス、オランダ、ロシアほか数十回に及ぶ海外公演では、上記の曲を演能することもあります。美術館、ホール、境界、セントラルパーク等での薪能など、さまざまな場所で演能しています。

鼎談後記

久世

工藤さん、第1回目の鼎談が終了しましたけれど、ご感想いかがですか。

工藤

人間国宝の梅若実桜雪さんとの鼎談ということで、お話しさせていただく前は、能の世界に詳しいわけでもない私と話がうまく噛み合うかなと思って緊張していたのですが、いろいろと話を伺っていると、伝統の重みをずっしり体に感じながらも新しいことにチャレンジすることだとか、当社と共通する話も多かったですね。
歴史といってもいろいろな歴史があるわけで、苦労された曾祖父様の話などはやはり心にすっと入ってきましたね。旭化成という会社を経営するにあたって、新鮮な気持ちにさせてもらえるようなお話で、改めて貴重な時間をいただいたなと思います。
当社にはいいところがたくさんあると思っていますが、そこに甘えずに従業員の皆さんと一緒に、より一層新しい旭化成を作っていきたいなという気持ちを改めて持った次第ですね。

久世

私も今回、能楽というものを改めて勉強させていただいて、能はずっと順風満帆できたのかなと思っていたのですが、そうではなくて本当に山あり谷ありでかなり御苦労もされたということがわかりました。
今日の鼎談の中では特に「失敗を恐れない勇気」というキーワードがすごく重要だなと思いました。我々が今進めています。「デジタル変革」はやはり失敗を恐れていてはなかなか前に進めない。そういう勇気を各人が持つことと、そういう環境作り、風土作りが大事かなと思いました。

(掲載内容は、2023年1月時点のものです)

ゲスト

能楽師梅若 実 桜雪(うめわか みのる ろうせつ)

梅若実桜雪観世流シテ方能楽師。梅若家当主。
国内外で多数公演。新作能にも数多く取り組んでいることで知られる。重要無形文化財保持者(人間国宝)。

Profile

  • 1948年五十五世梅若六郎の次男として生まれる。曾祖父は明治期に能楽に変革を起こした、初世梅若実
  • 1988年五十六世梅若六郎を襲名
  • 2008年二代梅若玄祥に改名
  • 2014年重要無形文化財個人認定(人間国宝)
  • 2018年四世梅若実を襲名
  • 2022年観世宗家より「雪号」を授与され、雪に桜を加え、梅若実桜雪(ろうせつ)と名乗る