100 Stories1925 水力発電所に見る旭化成誕生のきっかけ

これは旭化成創業者・野口遵と、旭化成発祥の地・延岡にまつわる、旭化成の誕生秘話である。この出来事をきっかけに、旭化成の創業につながった。

時代をさかのぼること100年。延岡・日向地区で電源開発が行われた。延岡の豊富な水と電力に魅力を感じた野口遵が中心となったプロジェクトだった。当時の電源開発は、「川の上流で発電して、下流の町で電力消費産業を起こす」という手法であった。

舞台は、熊本県阿蘇高原から発する五ヶ瀬川。阿蘇高原から多くの支流を合わせ、延岡でさらに大瀬川と合流して日向灘に注がれる。その落差と水量は、何箇所もの水力発電所の設置を可能にするほど莫大なものだった。

1919年に着想し、翌20年には地元有力者らと共同出資で五ヶ瀬川電力 を設立。直ちに発電所建設には至らなかったが、野口の先手を打つ戦略が見事に実を結ぶことになる。

野口は肥料となる硫安を低コスト製造するために、イタリアでカザレー式アンモニア合成法の特許権を1921年に取得。翌22年から延岡工場建設に着手している。つまりカザレー法導入の2年前に野口は延岡にすでに電力の拠点を得ていたことになる。当時日本で作られた硫安の価格が非常に高く、外国製の硫安が大量に国内に流入していた状況から国内での低コスト製造を狙ったものだった。

カザレー法の特許取得には、手付金10万円(現在の価値で1億円)、さらに100万円(現在の価値で10億円)で仮契約を結ぶ必要があったが、野口はそれを即決。現在の価値に換算するとかなりの金額だが、拠点を獲得済みであるという周到な準備が下地にあっての決断だった。

水や電力が豊富な延岡はアンモニア合成工場の絶好の立地であり、地元住民の積極的な誘致も工場設立の原動力となった。工場設立によって延岡では、雇用機会の増加など町が活気づくだけでなく、地域が抱える問題も解決が見込まれた。

その問題とは、1921年に起きた県下百町村による大規模な県外送電反対運動だ。延岡の電力を北九州の工場地帯に送電しようという宮崎県の動きに地元住民が反旗を翻し、電力の県内消費を訴えたのだ。

これは旭化成が延岡地区でアンモニア合成工場の建設に動き出している最中の出来事であり、五ヶ瀬川の電力を県内で消費するという住民たちにとっても大きな意味を持つ動きとなった。

中でも県外送電反対運動に強い意志を示していた恒富村が積極的に誘致に尽力し、工場の土地を購入するに至った。工場設立前から地元住民とここまで密接な関係を結べることは稀なことだ。

野口の辣腕と地元住民との協力のもとに生まれたアンモニア合成工場は、後の旭化成創業へと繋がり、100年後の現在も延岡地区に旭化成の工場を残している。

ところで、延岡で使用している電力は、東日本と同じ周波数の50ヘルツだと知っているだろうか。野口は大学卒業後、シーメンス東京事務所に技師として勤めていた。シーメンスを辞してからもその関係は続き、野口はシーメンスの50ヘルツの水力発電機器を導入したことによる。ちなみに九州電力は60ヘルツである。

そして延岡の工場を支えた五ヶ瀬川発電所は、2018年に自家発電更新が発表され、創業100周年となる2022年を目処に相次いで生まれ変わることとなった。100年前に旭化成創業時を支えた発電所が100年後に新たに生まれ変わるというメモリアルな施策だ。

旭化成のこれまでの歴史を見守ってきた延岡地区の発電所は、100周年を機に自らが新たに生まれ変わる。そうして、旭化成の次の100年を見据え、ともに歩みを進めてくれるはずだ。

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