100 Stories1931 祖業ベンベルグ 衣料だけでなく医療にも

ユニクロの機能性インナー「エアリズム」にも使われている、旭化成の祖業のひとつでもあるベンベルグ。その歴史は古く、1928年にドイツJ.P.ベンベルグ社と旭化成の前身である日本窒素肥料の間で、銅アンモニア法人絹の技術導入および資本提携がなされたことがきっかけとなり、生産が開始した。

ベンベルグの日本での販売に向けてまず行われたのが、野口遵が発起人となった日本ベンベルグ絹糸の設立だ。日本窒素肥料から、後の旭化成副社長となる片桐孝一ら19名が休職となって日本ベンベルグ絹糸に転籍。旭絹織からは後の旭化成社長となる浜田茂享ほか2名が加わった。錚々たるメンバーが派遣されたことからも、その本気度が伝わってくる。

このメンバーが中心となり、ドイツ人技師の指導のもとに日本最初の銅アンモニア人絹糸の技術確立に努め、ベンベルグはいよいよ販売開始の時を迎えた。

しかし、販売開始から1年間のベンベルグの売れ行きは決して良いものではなかった。人絹糸価格が一時史上最低の100円割れとなるなど苦しい時代の中で、新製品として進出するのは困難だったに違いない。

さらに内部的な問題として、操業当初は触感が悪い、硬い、糸がそろっていないなどの品質が不安定であった。工場では紡糸中に異物が混入落下する異常が数ヶ月続くという大きな事件も発生するなど、問題は山積状態だった。

こういった状況を打破するために、延岡工場では、精練工程に特洗法を採用することで苦情の多い綛乱れを防止し、硬質糸を解消することに努めるなど品質改善に努めた。

また、ベンベルグは従来のビスコースレーヨンと同じ染法では良い結果が出ないので、特有の染法を製品1箱ごとに注意書きをして染工場に徹底を図った。注意書きで効果が出ない地域には巡回し、輸出織物のために中国の天津・山東省の工場にまで赴いた。

こういった努力の甲斐もあって、販売から1年余り経った頃には売れ行きが好転してくる。ベンベルグの注目度が上がり、加工業社も優雅で柔らかな手触り、耐久力に富み洗濯が容易などのベンベルグの特徴を活かした製品を作ろうという機運が高まっていた。

1933年ごろには、日本の主要絹人絹織物産地のほとんど全てでベンベルグが使用されるようになった。その勢いによって工場も増設を重ね、1935年には延岡工場が世界最大のベンベルグ工場となる。設備面では圧倒的な能力を持ち、独自の改良を重ねた技術面も部分的にはドイツを凌駕するまでになった。

ほんの数年前にドイツ人技師の指導のもとに技術を覚えていたことを考えると、その努力は相当なものであったことは想像に難くない。

その後、スーツの裏地やインドのサリーをはじめとする海外における民族衣装にも使われるなど、順調な発展を広げ、現代では冒頭のユニクロ・エアリズムなどに使用されるまでに至っている。

1980年代に入ると、衣料用途にとどまらず繊維基礎研究所でベンベルグ(キュプラ中空糸)を用いた医療用途の器具開発が開始。87年にはBMM(ベンベルグ・マイクロポーラス・メンブレン)プロジェクトを発足させ、さらなる用途開発に取り組んだ。

その結果、血漿からエイズウイルスやB型、C型の肝炎ウイルス除去を目的に、90年には「プラノバ」の商品名で初出荷することに成功。その後、プラノバ事業推進部を設置して、事業化に向けた活動を開始し、今では旭化成の医療事業の主要事業となった。

このように新たな用途の開発にも余念がないベンベルグは、旭化成が100周年を迎える1年前の2021年に90周年を迎えた。今では他のメーカーや工場は他の繊維事業との競争により淘汰され、結果的に旭化成が世界で唯一のベンベルグメーカーとなった。

用途開発や技術革新を繰り返しながら、これまで社会のニーズに応える展開で世界オンリーワン事業として世界の人々の“くらし”に貢献しているベンベルグ。一方その技術は医療用途にも展開され抗ウイルスの分野で世界の人々の“いのち”にも貢献した。旭化成の理念にもマッチした祖業ベンベルグにとって、9年後に迫った100周年も通過点でしかないのかもしれない。

  • 第1期工事が完成した 日本ベンベルグ絹糸 延岡工場(1931年)
  • 完成した社宅群(日本ベンベルグ絹糸 1930年)
  • 完成した女子工員寄宿舎(日本ベンベルグ絹糸 1931年)