100 Stories1972 「ヘーベルハウス」誕生秘話

社長の宮崎輝の「欧米と遜色ない立派な住宅を提供したい」という言葉から始まった住宅事業は、衣食住の総合メーカーを目指した宮崎にとっても思い入れの深い事業だった。

1969年に不動産部を発足させて住宅業界に参入すると、翌70年にはヘーベルハウス第1号棟を東京・蒲田の住宅展示場に建設し展示を開始する。

ヘーベルとはALC(Autoclaved Lightweight Concrete)と呼ばれる軽量気泡コンクリートで、ドイツのヘーベルガスべトン社と技術提供して旭化成が日本で初めて導入した。ヘーベルハウス最大の特徴は、このヘーベルを外壁・屋根・床に使用することで、「軽量さ」「調湿力」「耐火性能」を向上させた点だ。そして在来の木造住宅ではなく、プレハブ住宅であることも特筆する点だ。

プレハブ住宅では最後発となった旭化成だったが、都市型に特化し「住宅のベンツを目指す」という戦略は他社とは一線を画していた。1972年には将来の住宅事業の発展を考え、住宅専業会社として旭化成ホームズを設立する。

しかし、本当の勝負はここからだった。旭化成ホームズの船出は前途多難なものとなる。

まず問題となったのが、注文住宅を始めるにあたり販売と施工体制をどのようにするかという問題だった。初期段階はリソース不足ということもあり、代理店方式を採用することになる。この方式は、旭化成がシステム開発と代理店の育成指導にあたり、直接の仕事は代理店が行うというものだ。成功の鍵は、住宅供給に精通して代理店を十分指導できるノウハウと人材を持ち合わせているかであった。

しかし、当時の旭化成はそこまでの力を有しておらず、事業はトラブル続きとなった。契約内容がはっきりしていないことに伴う営業・設計・施工間でのトラブルが頻繁に発生。時には不動産事業部と違ったセクションにまで苦情がいくことも少なくなかった。

さらに大きな問題となったのは、受注数に施工能力が追い付いていなかった点だ。直接の営業を任していた代理店の社員は歩合給だったため、契約獲得を優先しがちで施工側との連携がおざなりになった。1973年には、木材の異常な値上がりとも重なり、約70戸に及ぶ現場で工期の遅れが発生した。

この窮地で旭化成社員たちが団結力を見せる。年末までに完工して引き渡しを行うために受注活動を停止。全ての住宅事業の社員が一丸となって対応することを決意した。これは年末までに何がなんでも終わらせるという意味も込めてD作戦(D=December)と呼ばれた。

社員自らも早朝から深夜までペンキ塗りや障子張りを手伝い、ときには延岡から大工を呼び寄せるなど、悪戦苦闘しながらも年内完工を果たし、見事D作戦は成功。喜びも束の間、同じ失敗を繰り返さないよう改善にも着手した。

プレハブ住宅では先輩であり、兄弟企業でもある積水ハウスからも助言を受け、代理店方式から直販体制に切り替えるとともに、販売エリアを関東の一部に限定した。これを機に受注を再開し、多くの配転社員も加わり、リソース不足も解消された。

この時に工期の遅れの改善のために、標準仕様に基づく詳細な図面が作成されるなど、工務店や大工がマニュアルに従って組み立てる現在の体制が整えられた。

今では考えられないほどのチャレンジに見舞われた住宅事業だったが、それを乗り越えるために、助言を仰ぎ、昼夜を問わず働いた当時の社員たちの功績は、今の成功を考えると計り知れないものがある。多くの失敗を糧にグループの屋台骨を支えるまでになった住宅事業の誕生秘話である。

  • (写真)へーベルハウス第1号棟(蒲田住宅展示場)