100 Stories1985 アサヒビール愛飲運動

1981年、旭化成は朝日麦酒(1989年にアサヒビールに社名変更)の株式2,200万株を取得し、同社と業務提携を結んだ。
まったく異分野の提携として、マスコミに随分騒がれたが、当時のトップであった宮崎輝の考えに考えた末の決断であった。

きっかけは、当時、両社のメインバンクである住友銀行の頭取だった磯田一郎氏から「朝日麦酒の株を持って欲しい」と頼まれたことにある。

そのころ、朝日麦酒の株は、あるグループに6,400万株近く買い占められ、買い戻し交渉が大詰めを迎えていた。その引き取り先のひとつとして、旭化成に白羽の矢が立てられたのである。

社長の宮崎輝は逡巡したものの、朝日麦酒の発酵技術と旭化成のバイオケミカル(生命化学)を組み合わせれば、技術の裾野は広がるし、研究開発、情報交換、営業など様々な点で、両社の得るものは大きいと考えた。

さらには旭化成も食品事業を手掛けており、朝日麦酒との提携は、食品事業を強化するうえで極めて強力な援軍になる。食品事業の中ではビール、ウイスキー、清涼飲料などは将来性のある分野と考えていたことも、この申し入れを受け入れる一因となった。

宮崎は、旭化成だけなく、朝日麦酒にとってのメリットも熟考した。もちろん、旭化成と手を組むことで、株式の安定化が図れるというのは確かなメリットだったが、宮崎はユニークな施策も展開した。

そのひとつが、旭化成グループによる「アサヒビール愛飲運動」だ。延岡に愛飲推進室という組織を設置し、アサヒビールのシェアを上げようというのだ。宮崎自身も、それまで飲んでいたビールからアサヒビールに変えた。ウイスキーも朝日麦酒の子会社であるニッカウヰスキーの製品を飲むことにした。

結果、延岡では1割に満たなかったアサヒビールのシェアが3割強に急増した。その後、延岡以外の各地区でも組合を通して「指名ケース買い運動」「指名飲み運動」が展開され、1987年3月に「スーパードライ」が発売されると、シェアは加速し1989年には63%まで伸ばした。
もちろん、愛飲運動ぐらいで朝日麦酒全体のシェアがあがるほどこの業界は甘くないし、シェアの獲得は朝日麦酒の企業努力やその他の要因によるところが大きいことは間違いないが、「せっかく提携したのだから、全面的に協力したい」という宮崎の熱意が伝わる施策だった。

この運動では、従業員ひとりひとりが目的に向かって一致団結したことも特筆に値する。他社事にも関わらず、「皆で力を合わせ、朝日麦酒を助けたい」という心意気は従業員にもしっかり伝わっていたのだ。ビールを飲んだだけではないか、と言われればそうかもしれない。しかし、小さなことかもしれないが、目的に向かって皆で協力するという、創業以来より受け継いできた旭化成らしさがそこにはあった。

  • 延岡 大師祭り(1982年)
  • 若山牧水生誕100年記念ビール(1985年)