100 Stories1996 ペルー大使館人質事件

旭化成の100年の歴史の中には、良い出来事もあれば、驚愕な事件もあった。1996年に起きたペルー大使館での人質事件だ。

12月17日の夜間にその事件は起きた。ペルー首都リマの日本人大使館公邸に、突如として革命運動家(MRTA)が突入してその場を占拠。その時公邸では、天皇誕生日の祝賀レセプションが行われており、ペルー政府要人、日本企業駐在員など約600名が集まっていた。

そこには旭化成の社員も出席していた。化薬事業部から現地法人の社長として出向していた野崎英夫だ。元日秘商工会議所会頭で40年にわたり日本とペルーとの友好的な経済関係構築に貢献したとして、後に旭日小綬章を受章することになる野崎は、この時テログループに人質として監禁されてしまう。

その報を聞いてすぐに旭化成も動いた。現地に旭化成アメリカ駐在員を派遣して対応に当たらせるとともに、キミカソルで雇用していた従業員のルートで軍部に接触。交渉が難航する中、早期の人質解放に動くよう説得した。野崎は10日間にわたり監禁されたもの、軍部の活躍もあり、無事に解放された。

この時、解放に向けて裏で一役買っていたのが、当時の広報室長であった山中塁だ。人質を抱えた各企業広報は日本でのメディア対応に追われていたが、対応は大きく二つに分かれた。
人質の名前をメディアの要求に応じて公開するか、頑として公開しないか—。

メディアの要求を無視すれば、これまで丁寧に築き上げてきた信頼関係は失墜する。しかし、山中は悩んだ末に、頑として公開しない道をとる。

結果、その判断が功を奏し、野崎の解放の後押しとなる。公開することを選んだ企業は、その報道がすぐにペルーのメディアでも報道されてしまい、人質の身分がすぐさまテロリストにも伝わった。テロリストたちは、日本の大手企業の人質については、企業から身代金をとれると判断。身代金の交渉が難航し、情報公開の道をとった企業の日本人は、最後まで解放されなかった。

しかし、旭化成はメディアに非難されながらも情報公開しなかったために、野崎の身元は分からず、日本企業関係者と認識されなかった。それが早期解放につながった。

すべてに優先して野崎の人命をとるという想いが実った。
人質となった当の野崎は、拘束されたときのことをゆっくりとした口調でこう述べた。

「テロリストが銃声を鳴らしながら公邸に侵入してきたとき、化薬のプロである自分にはその銃声がすぐに空砲によるものだと分かりました。今思えばいろいろと冷静な対応をしていたかもしれません」

実際にこの事件の翌年4月には、当時のフジモリ大統領が派遣した特殊部隊によりテロ組織は全員射殺されることになるが、テロリストの正体は皆若い貧民層だった。

旭化成の社員が巻き込まれた100年間で最大にして最後のテロ事件。誰もが想像していなかった不慮の難局に対し、各部署が連携して人質の奪還に協力するとともに、それぞれの信条を貫いて社員を救った。

列を作って日本大使館の外へ出る人質たち。1997年04月22日【時事通信社】
https://www.jijiphoto.jp/dpscripts/help_jp/charge.html