100 Stories1974 アイルランドのカシミロン事業

初の海外進出事業は、辛苦の連続であった。その先駆けは、アイルランドにて、アクリル原綿(カシミロン)の製造とそれを用いた紡績糸を製造し欧州に販売する事業だった。

1974年にカシミロン原綿の製造・販売を行う合弁会社「旭シンセティックファイバーズ社」および同紡績事業を行う合弁会社「旭スピニング社」をアイルランドに設立し、欧州を中心に事業を展開した。

調査不足・経験不足に起因した初歩的なミスが頻発し、現地に赴任した関係者の苦労は相当なものであった。進出にあたって事業計画に関する実質審議がなされていなかったことや、海外進出にあたり歴史をわきまえなかったことなど問題が続出した。また、地理や気候、市場、物流、労働力等あらゆることの調査不足も露呈するなど、建設や操業当初は幾多の辛苦があった。

そのような中で、二度にわたるオイルショックの影響も大きく受けるなど厳しい試練に直面した。とりわけ旭シンセティックファイバーズは設備のウェイトが重いため、その影響も大きく赤字経営を余儀なくされた。

この事態に旭化成は、現地でサポートしてくれていたアイルランド共和国政府産業開発庁と同事業の再建策について協議を重ねた。その結果、1981年に新会社を設立し、事業の継続を決定する。

新会社は旭化成ヨーロッパ社による販売力強化、重油ボイラーの石炭ボイラーへの転換等徹底的なコストダウンの見通しも得られたので、改めてヨーロッパでのカシミロン事業の拡大・発展を目指して奮闘することとなる。

また、事業活動の一方で、アイルランド駐在員たちは、地元の祭典などにも積極的に参加し、地域活性化運動にも一役買っている。

1992年には地元地域で開かれる夏祭りに焼き鳥屋を出店。現地でも馴染みのある塩・胡椒の味付けではなく、あえて日本風のタレで勝負をして大好評を得る。地域社会の一員としての日本人の存在を大いにアピールし、その様子は旭化成の社内報にも掲載された。

苦難の時を超えて地域社会の一員としても機能してきたアイルランドでのカシミロン事業。その経営は1990年代後半にかかり、競争の激化、原材料の高騰、欧州通貨の為替激変等により、厳しい経営が続くようになり、MBO(マネジメント・バイアウト)も検討されたが、従業員と最終的な合意に至らず、1997年に撤収することが決定した。

1974年の進出当初から苦難の連続であったが、結果として20年を超える期間継続を果たしたアイルランドのカシミロン事業。そこには、現地での大変な苦労と努力があった。撤収時には、それまでの地元への功績に対し大きな感謝をされ、地元紙に日本語で「ありがとう」の文字が大きく掲載された。

  • 「ありがとう」と大きな見出しで
    発行された地元紙