100 Stories1934 幾度の窮地を克服。硝化綿の趨勢

かつて業界第一位をほしいままにし、時代のトップランナーを走った旭化成の事業があった。旭化成の歴史の中でも最も古い部類に入る製品の硝化綿だ。

旭化成発祥の地となった延岡は日本の化学工業史にとっても重要な土地だった。その延岡で生産されるアンモニアは、硝酸から火薬、硝化綿とベンベルグという新製品の原料として活かされることになり、イモヅル式に事業が形成されていた。

硝化綿はアンモニアの誘導品である硝酸を原料に、1934年に生産を開始。この硝化綿を使って、天然の可塑剤である樟脳(しょうのう)を使わないセルロイド「チッソロイド」を開発した。

このチッソロイドは硝化綿事業のターニングポイントになったが、完成までの道のりは非常に険しかった。

セルロイドの生産は、大半を機械に依存することと政府専売の可塑剤として使われる樟脳の入手が重要だった。日本窒素火薬は、入手に多くの手間や時間が必要となる機械類の手配に躍起になっており、樟脳の入手には楽観視をしていた。

日本では樟脳は国内だけでなく世界各国に輸出もしており、セルロイド製造用に加工することに問題はないと考えられていた。ところが、樟脳の配給を受けている既存のセルロイド製造業者が、他社の参入に反対したことにより、交渉は暗礁に乗り上げてしまったのだ。

そこで社長の野口遵は、樟脳の産地である台湾での企業化を構想するも、そこでも台湾総督が進出を拒否。樟脳なしでのセルロイド量産は日本では未開発であり、状況は絶望的とも言えた。

それでも諦めることなく研究を重ねた結果、「合成可塑剤」なるものによる見通しをたてることに成功。日本初の試みであったため、その先も苦労したものの、ついに「チッソロイド」の生産体制が整った。

同時期に生産が開始されたラッカー用の硝化綿やレザー用の硝化綿とともに生産量は順調に増加していたが、1940年代頃をピークに硝化綿の勢いは衰えを見せた。火薬生産の原料ともなる硝酸は、太平洋戦争の開始とともに軍需が膨張して不足しがちになったため、民需に依存した用途への硝化綿の使用が極度に制限され、生産の縮小を余儀なくされた。

戦後、1950年代には日本の経済復興とともに国民の生活が安定するにつれて写真フィルム用途が伸びた。53-54年はカメラブーム時代を迎え、需要は最高度に高まったが、フィルムの可燃性が問題となり、硝化綿を使用しない不燃性フィルムに置き換えられた。

硝化綿は、顔料分散性がきわめて優れているため、長らくラッカーなどの塗料に最適であったが、ラッカーは時間とともに黄変するため、ウレタン塗料に市場を奪われ、需要は次第に減少していった。

そんな状況を危惧しながら、ここでも打開の道を探り、一つの解決策が見え始める。ビデオテープの原料として、生産開始からわずか4年にして、数十年の歴史を持つ旭化成の硝化綿事業の有力な戦略製品にのし上がってきた「セルノバ」の登場だ。

当時のプロジェクトリーダーは「この開発のスタート時には、今の隆盛は予測できていなかったです。しかし開発に5年かかるとしたら、5年後の社会がどう変わっているかを勉強し、それを自分の信念としてがむしゃらに進むことで良い結果が得られるのではないでしょうか」と手応えを口にしている。

セルノバは1980年代後半をピークに硝化綿の販売高が減少した後にも、磁気テープ用バインダーの用途が伸張するなど、息の長い活躍を見せた。その後は旭化成ポリマー研究所でも硝化綿の研究が続けられたが、2003年に事業撤収が決定し、フランスの会社に事業譲渡された。

  • さくらフィルム
  • 「セルノバ」を使用したビデオテープ