100 Stories1981 LSI事業立ち上げの勇者たち

「世界No. 1より挑戦No. 1でありたい」
旭化成の挑戦は、「衣」を整える繊維に始まり、「食」を豊かにする肥料作りから化学事業へ、快適な住まいを提供する「住」の住宅・建材事業に至る。現在の旭化成は、まさに会長の宮崎輝が唱えた衣食住の総合メーカーとなった。

さらに人々のいのちを救う医薬・医療事業、そして現代社会に欠かせないエレクトロニクス事業へと、ステージを広げて挑戦を続けている。その裏では、常に旭化成の戦士たちが弛まぬ努力と結束力でブレイクスルーを起こしていた。

エレクトロニクス事業は、1980年の宮崎輝の年頭挨拶からはじまった。

「いま成功している仕事は、自動車や家電に向かっているものが多くなっています。例えば、合成ゴムやタイヤコードなどは自動車に、ポリスチレンなどは家電に向いています。しかし、将来はこの自動車と家電に加え、コンピューターに向かう仕事が成功するのではないでしょうか」

以来、新たな挑戦に踏み出した旭化成は、徹底した調査のもとある決断を下す。

「当社は製造会社である。製造行為のシナジー性を考えると物理/化学系の技術者が6~7割を占める半導体が最も近い」

自社の特性を活かした新事業進出の方向性が決まった。

カスタムLSIを起点に、旭化成が築き上げてきたエレクトロニクス周辺技術と結合して、優位性の高い市場に向かう。そこで共同事業相手に選んだのが、カスタムLSIで世界トップメーカーだったアメリカのAMI社。旭化成はAMIの日本子会社であるAMIジャパンを買収し、旭マイクロシステムと社名変更した。

1983年から同社で通信用LSIの輸入販売を開始。同時に新事業を自前の技術で事業化するために、機械、電気などを専攻する若手従業員19名が召集された。

彼らにまず課されたのは、2ヶ月に渡る厳しい英語学習である。この学習期間が終わるとアメリカAMI社での研修へ派遣され、その期間は半年から長い者で2年。現地でLSIの設計技術を研修し、1986年の事業化を目標とした。

1984年にはデザインセンターを開設し、着々とLSI事業の基盤が整えられていく。その期待に応えるべく、帰国したメンバーたちはとにかくよく働き、職場は活気に溢れた。デザインセンターが入るビルは、夜になると冷房が切れるので、夏の暑い日にはパンツ1丁で残業。シャワーもないので、流し場で体を拭くことも日常茶飯事だった。

1986年にはアメリカの半導体不況の影響で、旭マイクロ社を100%子会社化し、旭化成マイクロシステム(AKM)と改称。AMIとの提携解消に伴う技術開発力低下を補うために、日立製作所やアメリカのベンチャー企業からも技術導入をして幅を広げていった。

大きな成果が現れたのは1990年代に入った頃だ。移動体通信やオーディオ分野を中心にLSI技術の新たな需要が生まれた。当時はニッチ市場だと思われていた携帯電話向け小型LSIには、競合メーカーがほとんどおらず売上高は急増。既存の生産能力では足りず、日立製作所と業務提携をして量産工場を建設することになった。

新事業開始という難解なミッションを見事にこなした19名の旭化成の精鋭たち。AKMを成功に導いた熱い想いと仕事への姿勢は現在も引き継がれている。

  • 1999年までエレクトロニクス研究所があった厚木事業所(棚沢)