100 Stories1948 日本三大争議にも数えられる「延岡大争議」

2019年度に発表された過去10年の平均年収ランキングで、年収800万円を超える企業は日本でわずか270社。その中には旭化成もランクインしている。

ちなみに日本の平均年収は432万円。就職活動で重視する要素は人それぞれだが、給与面から見ると多くの人が興味を持つ企業と言える。

企業の賃金を語るうえで切り離せないのが、労働組合による賃金交渉だ。現代では賃金交渉もスマートになってきてはいるが、戦後は労使間での争いが全国各地の企業で発生した。

旭化成も例外ではなく、1946年1月に延岡工場レーヨン部の旗揚げを機に各部で組合が結成され、10月には全社的な連合組織として旭化成労働組合連合会(略称:旭連)が結成された。

多くの場合、労働組合の結成はすなわち争議の開始を意味する。国民の多くが生活不安を感じていたこの時代に、当初は穏健な動きだった旭連も経営陣との闘争に入っていくこととなる。

46年4月には、組合員8,000名という大工場が生産管理闘争に突入。西日本でも例を見ない大規模な争議が発生した。生産管理闘争とは、「組合員が工場を占拠し、経営者に代わって生産管理を断行する」というものだが、この時の要求が「賃金5倍」「組合員の解雇・転勤は組合の承認を得る」というものだった。

経営陣はこれに対し、ある程度の賃上げは認めたが、解雇や転勤は経営権であるとして拒否。しかし、結果としてこの争議は、会社側の体制が整っていなかったために要求の8割方を飲むことになる。会社側の完全敗北だった。旭化成中興の祖とも呼ばれる宮崎輝をして「このままでは会社は潰れる」と感じるほど、悲惨な結果となった。

組合側の要求は、この勝利を境にさらにエスカレートする。そして、日本三大争議にも数えられる48年の「延岡大争議」へと突き進んでいくことになる。

延岡大争議の参加人員は、なんと14,000人。西日本最大級であった生産管理闘争の倍近い人員となった。当時の延岡の従業員数が15,000人であり、そのほとんどが参加した事実からも闘争の激しさが伝わってくる。

要求は総額で1億2000万円。これは当時の売上高にも匹敵する額で、会社としては到底飲めるものではなかった。まさに宮崎が危惧したことが現実となる。

「組合の過激な体質を根本から改めない限り、同じことが繰り返され、やがては倒産に追い込まれる」

この問題に対して全権を委任されていた宮崎は、終始強い姿勢を貫くと決めていた。その判断は間違っておらず、宮崎の内命を受けて延岡入りしていた黒田義久、桜井弘がその実力を発揮する。後に旭化成の中核を担う2名の活躍もあり、スト中止が打ち出されるなど、争議は会社側優勢で進んで行った。

そんな折に発生したのが「レーヨン通車門事件」だ。就労に向かう社員たちと、レーヨン工場の通車門前でピケッティング(就労の阻止などをする行為)を張っていたストライキ中の社員が衝突。重傷者3名、軽傷者42名、合わせて45名の負傷者を出した。

この旭化成社員同士の痛ましい事件は、ストライキに走っていた社員たちの心に、少なからぬ変化を生んだ。ストライキは急速な衰えをみせ、ついには延岡大争議の終結を迎えた。

宮崎はこの事件を終え、このように語っている。

「従業員はこの貴重な体験で、労使協調なくして会社の繁栄も組合員の生活向上もありえないことを学んだのではないでしょうか」

旭化成が創業100周年を迎えようとしている現代では、従業員の働き方も多様化し、見られなくなった労働争議。今の賃金システムや待遇は、会社と社員が本気でぶつかり合いながら築き上げてきた歴史の上に成り立っている。決して繰り返してはいけない出来事だが、今の環境が先人たちの苦労の末にあるということは決して忘れてはならない。

  • 厳重に固められたレーヨン部正門前の第1組合ピケ(1948年)