100 Stories2006 有終の美で日本3位!旭化成スパーキッズ

オリンピック選手も輩出した旭陽会バレーボール部。スポーツ活動に積極的な旭化成の中でも、柔道・陸上と並び最も力を入れていた競技だ。

その歴史は古く、1946年に宮崎県延岡市で9人制バレーボール部として創部。1963年に6人制へ移行し、1971年には水島に本拠地を移して日本リーグに参戦する。

この時期に所属した南将之(みなみ まさゆき)選手は、1964年の東京オリンピックから3大会連続出場した日本のトップ選手だ。東京オリンピックでは旭化成の従業員として初の銅メダルを獲得。続く1968年のメキシコオリンピックでは銀メダル、1972年ミュンヘンオリンピックでは念願の金メダルを獲得した。

  • 社報あさひ、1972年9月18日号

しかし、旭陽会バレーボール部は、国内最高峰である日本リーグで苦戦を強いられた。日本リーグには4シーズン参戦したが、成績は低迷し一時は3部リーグにあたる地域リーグにまで降格してしまう。

1993年になると南将之選手の息子である南克幸(みなみ かつゆき)選手が入社するなど、日本リーグ復帰に向けて強化が進められた。南克幸選手は旭化成入社1年前に開催された1992年バルセロナオリンピックに日本代表として選出されている実力者だ。

ちょうどそのころ、1994年に「21世紀に向けたバレー改革案」と題したバレーボールのプロ化構想が発表され、『プロ契約選手の承認』、『外国人選手の復活』、『プロチーム(株式会社化クラブ)参加の承認』が掲げられた。

その年末にVリーグが開幕。しかしこの時点では、日本人プロ選手は誕生せず、プロチームも結成されなかったが、少しずつ実業団からプロリーグに転向するチームがでてきた。

1998年には強化の成果が出始め、2部リーグにあたる実業団リーグで準優勝を果たすまでに成長した。その年、1部リーグにあたるVリーグ(旧日本リーグ)がチーム数を増やしたことにより、念願のVリーグ昇格が決定する。

チーム名も「旭化成スパーキッズ」と改称。「スパーキッズ」とは「スパーク」と「キッズ」の造語だ。「スパーク」は火花が散るようなプレーとシャープな攻撃力を表し、「キッズ」はまだまだ成長し続ける、元気で活力溢れる若者たちを意味している。

  • スパーキッズのロゴ・イラスト

ライバルはどのチームも助っ人外国人を起用する中、Vリーグ唯一の純国産チームとして奮闘するが、4年連続最下位という苦い結果に。それは、旭陽会の理念からだった。

その理念とは「職場に足掛かりを持つ社員選手で、日本の優勝を争うあるいは日の丸をつけてオリンピック等世界大会に送り出すことを通じて、社員の士気高揚を図り、それを通じて地域社会にも貢献する」というものだ。

半世紀以上続いてきた伝統ある旭陽会バレーボール部は、2006年3月に廃部が発表された。

この告知から2ヶ月後に控えた黒鷲旗全日本選手権が最後の活動の場に決まった。トーナメント方式の「負けたら即終了」という状況に、選手たちの熱い思いが形となって現れる。極限の精神状態の中で必死にボールを繋ぎ、快進撃を見せたのだ。

迎えた準々決勝では前年のVリーグチャンピオンを相手にフルセットの末に劇的な勝利を収める。実に33年ぶりとなる日本3位を勝ち取って有終の美を飾った。