100 Stories1922 社名のルーツとなった旭絹織膳所工場

旭化成の名前のルーツと言える地の工場が、旭化成100周年を前に閉鎖された。現在の滋賀県大津市にあったルネサスエレクトロニクス子会社の半導体製造工場である。

明治後期に絹の代用として海外から人造絹糸(レーヨン)が輸入され、その将来性から1919年に伊藤忠や丸紅など近江出身の商人たちにより設立された旭人造絹糸。同時期に、旭化成創業者の野口遵も、アンモニア合成技術導入のために渡欧した際に人造絹糸の企業化を構想していた。

野口がドイツのグランツシュトフ社との技術提携交渉に成功したことで、旭人造絹糸社長の喜多又蔵氏と新会社を設立し、旭人造絹糸の膳所工場の譲渡を受けることとした。

これが旭化成の創業と言われる旭絹織の誕生である。1922年のことであった。
そして旭化成の「旭」は、この旭絹織に由来している。琵琶湖畔膳所(滋賀県大津市)には義仲寺と言う寺がある。この寺には朝日(旭)将軍木曾義仲の墓とお堂があり、膳所をゆかりにその「旭」をいただいたのが社名のおこりだ。

旭化成の社名にも大きく関わった膳所工場は、琵琶湖の水を利用できるほか、神戸港からの輸入機械・原料の輸送、京都・北陸・東海の需要地への製品運搬にも恵まれていた。旭人造絹糸時代の不完全な機械設備のほとんどが廃棄され、人絹固有の設備はドイツから最新式のものを取りそろえた。

工員の募集も順調に進み、会社創立2周年の1924年に操業を開始。大正末の時代において旭絹織は約1,000人を雇用する大工場となった。需要も好調で、当初輸入した設備は日産1トンであったが、同一能力の第2次増設工事を開始。1926年に第2次増設工事が完成することとなるが、それを待たずに第3次増設も決定するほどの勢いをみせた。

1927年には第3次増設が完成。ここで膳所工場の敷地がいっぱいになったこともあり、次の増設は日本窒素肥料の工場のある延岡地区に分工場を立てることとなった。1930年頃には膳所工場の従業員数は2,500人にまで膨れ上がり、不況も経験したが1932年後半からは利益が急増。

1933年には日本ベンベルグ絹糸、延岡アンモニア絹糸と合併することとなり、旭絹織は発展的に解消して、旭ベンベルグ絹糸の1部門となった。その後、第2次世界大戦勃発による影響を大きく受けて、1940年初頭にレーヨンステープル事業からの撤退を決定。膳所工場は1943年戦争末期に当時の住友通信工業に譲渡され、真空管などの軍備品製造工場となった。

その後真空管から半導体工場へと変わり稼働を続けていたが、旭化成が100周年を迎える1年前の2021年8月末に最後に残った化合物生産ラインが停止し、閉鎖を決定した。工場の土地は大阪市の不動産会社が取得し再開発するということになった。

  • 再選別作業(1928年頃『図解化学工業』より)
  • 旭絹織 膳所工場(1926年)
  • 当時のまま残されていた建屋(2019年撮影)