100 Stories1931 旭化成の設立と延岡アンモニア絹糸

1931年5月21日、日本窒素肥料延岡工場が譲渡され、資本1,000万円で延岡アンモニア絹糸が設立された。新会社の社長には野口遵が就任した。現在の旭化成の設立である。この設立には、将来の旭化成の姿を予想するような構想があった。

この時すでに朝鮮窒素肥料および日本窒素火薬は日本窒素肥料が全株を所有する子会社として設立されている。さらに過半の株を所有する旭絹織と日本ベンベルグ絹糸があった。

日本窒素肥料は延岡工場の分離によって、最も古い水俣工場のみを残して本体は持株会社とし、他の工場を多くの子会社に分散することにより、外部から日窒コンツェルンと呼ばれる企業集団の形を整えたことになる。

延岡アンモニア絹糸として独立した時から近い将来において日本ベンベルグ絹糸と合併し延岡地区に総合的な化学企業を構築することが決まっていた。その後の手続きにおいて、旭絹織も合わせた3社で合併する形式をとったので、法的に同社は旭化成の前身会社となっている。

具体的には「延岡工場及び付属発電所を分割して資本金2,000万円の新会社を設立し別紙記載の方法及び条件をもって日本ベンベルグ株式会社を合併すること」が決議された。別紙「延岡アンモニア会社設立増資順序」では、第1段階として日本窒素肥料が延岡工場を1,000万円と評価して現物出資して新会社を設立することが定められた。

第2段階で発電所及び送電設備を同じく1,000万円と評価して現物出資、2,000万円に増資する手順を示している。延岡工場と発電所送電線の評価額を各1,000万円とした根拠には、建設原価と償却を引き去った原価の双方の数字が示された。

同時に討議された別紙「日本ベンベルグ及窒素延岡工場合併方法及条件」では、はじめに新会社の設立、次に新会社と日本ベンベルグ社の合併と順序が決められていた。しかし、日本ベンベルグ社との合併を前提条件とするには、前もってドイツのベンベルグ社の了解を得ておく必要があった。

もしドイツ側が合併に難色を示す時には、延岡地区の総合企業化という目的が果たせず、延岡工場の分離自体が無意味になるからだ。これに対しドイツ側は、合併後もこれまでの日本ベンベルグ絹糸と同様の性格であることを認め、経営に関与することを条件に合意し、日本窒素側もこれを了承した。

1931年5月21日に延岡アンモニア絹糸株式会社が設立された。新会社の社長には旭化成の創業者である、当時日本窒素肥料専務の野口遵が就任。同社の生産設備が無機薬品と肥料だけで、社名原案は「延岡アンモニア」であったにもかかわらず、実際の社名に「絹糸」が付いたところにも、将来の日本ベンベルグ絹糸との合併を強調している。

3社合併によって人絹業界トップクラスの規模となり、現在の旭化成を形づくる大きな一歩を踏み出した。この一端を担った延岡アンモニア絹糸の設立は、将来の合併を見据えた大きな流れの中で生まれたものである。

  • 後に延岡アンモニア絹糸となる、日本窒素肥料延岡工場
    (第1期工事完成1923年)