100 Stories2003 東洋一のマンション!同潤会江戸川アパートメントの建て替え

かつて「東洋一」と称され、世間でも話題となったアパートがある。
1923年に発生した関東大震災の復興支援のために設立された団体「同潤会」が建てた「江戸川アパートメント(東京都新宿区)」だ。

「同潤会アパート」と呼ばれる同潤会が建設したアパートは、耐久性の高い鉄筋コンクリート構造。当時としては先進的な設計や装備がなされており、中でも江戸川アパートメントの設備は注目の的となっていた。

2061坪の敷地に配置された建物は全257戸。間取りのバリエーションは30以上もあった。設備面でも水洗トイレやセントラルヒーティング、さらには昭和初期のアパートにもかかわらず、エレベーターまで完備されていた。

当時の最新鋭の建物ということもあり入居基準も高かった。政治家や文化人、芸能人などが多く、精神科医のなだいなだ氏、漫画「ゴルゴ13」の作者さいとうたかを氏、坪内逍遥の孫である女優の坪内ミキ子氏、文学者、小説家、映画監督など、錚々たる面々が所有者や入居者として顔を揃えた。

しかし、時が立ち、昭和40年代に入ると、その江戸川アパートメントにも建て替えの話が浮上しはじめる。基礎が老朽化したことで建物が傾き、雨漏りも発生した。だが、有識者を中心とした保存意見が勝り、補修や改修が行われることはなかった。建て替え話が幾度も浮上しては、すぐに消えていった。

有名物件であるものの権利関係が複雑なうえ、所有者にとっての建て替え条件も悪かった。高齢者が多いということでデベロッパーも手を出さず、江戸川アパートメントは築70年弱まで昭和初期のままだった。

そんな中、2000年に名乗りを挙げたのが旭化成ホームズの都市開発部(現旭化成不動産レジデンス)だった。しかし当時は、地権者との間で合意形式を図る等価交換方式のマンション事業は得意としていたものの、建て替えは経験がなかった。

彼らにとっても未知の領域だったが、部長を務めた関根定利(せきね さだとし)は当時の心境を次のように語っている。

「当時マンションの建て替えは全国でも100例程しかなく、正直どこがやっても初めてのようなものでした。それに前年に地権者27名と合意形成を行い、等価交換方式で高層マンション建築を実現させた経験がありました。今回はその10倍程度の合意形成をすればいいだけだな!やってやるぞ!と意気込んでいました」

そうして、2001年夏、2ヶ月を要することになる230名との個別面談が開始された。猛暑の中、冷房設備がない江戸川アパートメントの1室を使って行われ、汗だくになりながらシャツ1枚で1人ずつ交渉を重ねた。

「合意形成は賛成をお願いするのではなく、権利者が抱える問題や不安を解消していくこと」という信念のもと、地道な努力が続けられた。

秋頃にはそんな努力が徐々に実を結び始める。広島や山口など遠方に住む区分所有者には直接会いに行った。関根を中心とした社員たちの熱意が所有者にも伝播。何十年も実現しなかった建て替えが今こそ行われるという期待感が最高潮に達していた。

そして2002年3月23日、建て替えが決議される。建て替えが進まないことで有名物件となっていた江戸川アパートメントを動かしたのだ。

「マンションの建て替えは個人住宅の建て替えの集合体」という旭化成の考えを現場が反映し、所有者1人ずつと真摯な姿勢で向き合いこの難局を乗り越えたことで、業界でも「マンション建て替えの旭化成」というネームブランドを確立。その後も民間初のマンションである「四谷コーポラス」、初の公的マンションである「宮益坂ビルディング」など、エポックメイキングな建て替え事業を次々と成功させていった。

  • 建て替え前外観