100 Stories1980 勲章受章者を多数輩出「石油化学研究所」の誕生

旭化成の100年の歴史の中では、紫綬褒章や旭日小綬章など、様々な功績が認められ勲章を授与された者が多くいる。その中で、旭化成出身者の紫綬褒章の約半数以上を生み出したのが、水島に立ち上げられた「石油化学研究所」だ。

旭化成の工場は延岡からはじまり、1950年代には鈴鹿・川崎にも広がり東海・関東地方に拡散したが、徐々に川崎の生産能力も限界に近づいていた。そこで、原料遡及と化成品の製法転換、原料からの一貫生産をするために水島にエチレンセンターを建設することになる。

これが石油化学研究所の前身となる。

石油化学研究所の誕生を語る上で欠かせないのが、初代研究所長となる河野正志の存在だ。河野は、導入技術の多かった旭化成の石油化学について、自社技術を創ることの重要性を痛感していた。本社で石油化学の研究開発の重要性を説いて回り、それが石油化学研究所の発足につながった。

河野はその後、多くの研究者や技術者に影響を与えることになるが、多くの研究者が胸に刻んだ河野の言葉にこんなものがある。

「研究報告や技術の報告は無理をしてはいけない。背伸びをするな。あくまで研究事実に基づく必要がある。少しでも希望的観測に基づいた報告をすれば、それが真実だと思われ、結果的に嘘をついたことになる。研究者・技術者は研究成果について嘘をついてはいけない」

研究については、常に厳しく、人一倍の熱意でとことん向き合う性格だったが、普段は笑顔を絶やさない温厚な人柄だった。話好きで所長室にいるよりは、研究所員の隣にきて豊富な知識を基に技術論義を展開した。また料理が得意な河野は、技術者を自宅に招きご馳走をする傍ら、技術論議に花を咲かせた。当時の社員は、それが若い研究者達への重要な教育になっていたという。

石油化学研究所では、そんな河野の意向で研究者が様々な実験を行えるように充実した設備が整えられた。建設時には自ら設計図面を机に広げ、検討を重ねた。建屋や研究設備、解析機器は当時最新鋭のものを揃え、分厚い壁は爆破実験にも耐えうるものになった。自分で実験器具を制作できる工作所も設置されていたほか、文献・書籍の豊富さも他に類を見ないものであり、インターネット普及前の時代にもかかわらず、有益な情報が容易に収集できる環境が整った。

充実した環境の中、河野の情熱はさらに熱を帯びていく。また研究所内の勉強会だけでなく、水島内で組織横断的に光るものがあると感じた技術者を集めて、勉強会や合宿を開催した。後に社長となる藤原健嗣もこの勉強会のメンバーだった。

各自の調査・勉強の発表会を行い、そのまとめとして自身の考えを大量に盛り込んだレポートを何度も作成した。B4用紙に手書きで書かれた「水島の石油化学の今後の展望」という河野のレポートは研修者の中で読み継がれる名作となった。

さらには、水島での勉強会だけにとどまらず、全社横断的に人材をピックアップし合宿形式での勉強会も行った。ここでは旭化成の素晴らしい技術者たちが集い、互いに刺激を受けるとともに、大きな志を抱くのだった。

河野自身も多くの研究開発成果を上げる一方で、その熱意は確実に研究者たちに受け継がれた。河野が一線を退いた後の水島でも、河野の掌で誕生し育まれた技術やテーマが次々と工業化されていく。メチラール、シクロヘキサノール、ポリカーボネート、ポリカーボネートジオールなど、そのすべてが工業化に成功。これだけの成功率は業界でも稀有な例だという。その成功に導いていったのが、当時河野の薫陶を受けたメンバーたちだった。

河野は自身の研究開発成果の多さに加え、多くの優秀な研究者・技術者を育んだ。社内では「旭化成の研究開発の中興の祖」と呼ばれ、若い人材にも多大な影響を与えた。その後も研究所出身者から多くの勲章受章者を輩出したことがその功績を物語っている。

旭化成の研究において非常に重要な役割を果たした石油化学研究所。その誕生の裏には、「世界に冠たる技術を」と研究者に夢と希望を与え鼓舞をし続けた、初代所長の飽くなき探求心と熱意があった。

若い技術者に望む
1. 最早技術導入の時代ではない
2. 分からないからChallengeする
3. 学問の進歩する処に新しいビジネスチャンスがある。バイオテクノロジーとエレクトロニクス
4. 新しい専門に積極的に取り組む。自分の専門にとらわれない
5. 真面目人間は会社を潰す。どんな事業でも20-30年でAging 合繊(合成繊維)、石化(石油化学)、鉄鋼、石精(石油精製)Diversification Restructuring
6. 欧米に工場を持っていけない事業ではタカが知れている
7. 凡(あら)ゆる予測は当たらない。自分の足で勇敢に歩こう。

  • 石油化学研究所、開設当時