100 Stories1981 軽くて強いカーボンファイバーへの挑戦

「軽くて・強くて・腐食しない」21世紀型の先端機能材料と言われている素材がある。自動車の部材やゴルフのシャフト等に使われているカーボンファイバーだ。鉄と比較すると比重で1/4、比強度で10倍、比弾性率が7倍など優れた特性を持つ。

1959年にアメリカのUCC社がレーヨンを原料として販売を開始したのが、カーボンファイバーの始まりだ。日本では1960年代に研究を開始する企業が現れ始め、旭化成では1970年代に研究を開始した。

一時研究を中断した時期もあったが、スポーツ・レジャー用、航空機用の市場が成長し、1979年に研究を再開。1981年には日本カーボンと合弁で旭日本カーボンファイバー株式会社を設立し事業化を図った。

事業化にあたり当初4年目には黒字化するという提案がなされていたが、設立時には赤字計画に変更され、「黒字見通しなく参入したのはなぜか?」といったことが社内でも議論の的となった。

経営陣からは「高品質のものを作り上げることが何より大切であり、その努力と見通しを前提に今回の提案を承認する」といった発表があり、企業化というよりはR&Dという側面もあった。

参入から5ヶ月後の1981年9月には、複合材料(コンポジット)事業を推進するために、チバ・ガイギー社と合弁で旭コンポジット株式会社を設立。旭日本カーボンファイバーも年産能力を増強するなど力をつけていった。

しかし、1980年代前半は欧米の大手化学企業が次々市場に参入。その上、円高が進行したため価格・品質の両面で競争が激化。旭化成としても、日本カーボンが本業の業績悪化を理由に撤退したため、合弁を解消し旭化成カーボンファイバーに改称することとなる。

1989年には、その旭化成カーボンファイバーも債務超過状態となったために、新旭化成カーボンファイバーを設立して事業を引き継いだ。旭コンポジットも、チバ・ガイギー社が出資を引き揚げたため清算し、新旭化成カーボンファイバーが合わせて担当した。

そんな激動の1980年代から90年代に差し掛かる頃、世界でのカーボンファイバーの需要が伸び、市況も回復してきた。アメリカでゴルフシャフトの需要が伸びるなど、スポーツ用途での伸びも顕著である。旭化成では「21世紀には有力素材となって市場が拡大する」という見通しのもと、事業の継続が決定した。さらなる開発に取り組み、参入当初は年産能力180トンだったところから、年産580トンにまで増強を果たした。

しかし、アメリカでゴルフシャフトの需要が急成長したことは、スポーツ用品の生産拠点として台湾の成長を促し、価格競争は一層シビアになる。旭化成は航空機用途に参入できなかったため、スポーツ用途市場での激しい国際競争に巻き込まれた。

さらに1990年代には冷戦体制が崩壊して軍事用途がなくなったため、世界的に業界再編成が起こる。この影響により80年代に参入した欧米企業の多くが撤退していった。

こうした中で旭化成も、94年1月に撤退を決定。同年5月から段階的に生産を停止し、12月31日をもって新旭化成カーボンファイバーは解散となった。

良い素材であるがゆえに競争もシビアであったカーボンファイバー。その将来性を見込んで、15年近いチャレンジとその間にみせた開発力は他社に引けを取るものではなかった。

  • 炭素繊維工場(富士、1982年)