100 Stories1960 技術輸出第1号、レーヨンをインドへ

旭化成は海外から技術を導入し、それを発展させ、自分たちのものとしてきた。その歴史をひも解くと、技術導入・輸出ともに第1号はレーヨンだった。

レーヨンは旭化成の祖業であり、創業者の野口遵がドイツから持ち込んだものだ。野口は1921年に、ドイツのグランツシュトフ社からレーヨンの製造特許を取得し、旭絹織で人造絹糸の事業を開始している。

旭化成はレーヨンに始まり、再生セルロース繊維「ベンベルグ」や食品事業など次々に新しい分野にも挑戦。1960年に「サランラップ」が発売されたのと時を同じくして、レーヨンが技術輸出第1号となった。

これは日本政府の「貿易・為替自由化計画大綱」の決定により、綿などの繊維の貿易自由化に向けて、国内生産ではなく製造技術を輸出することで、現地生産により旭化成のプレゼンスをあげようとしたものだ。

はじめての輸出先は、インドのバローダ・レーヨン社だった。独立して間もないインドは工業化推進の一環として、レーヨンの自給化を計画していた。旭化成と新三菱重工、三菱商事の三社が工場建設に協力することになったものである。日本の化繊業界としても、外国の化繊工場の建設を援助するのは初めてのことであった。

各プラントの主要機械設備の製作を新三菱重工が引き受け、これを一括購入してインドへの輸出を担当したのが三菱商事だ。旭化成は工場の計画と建設指導、新設された工場の生産運転の指導を担当する。

現地に派遣された従業員は現地での様子を「旭の糸は評判が良かった。お世辞半分でも嬉しかった」と語っている。お世辞半分を割り引いて考えても、旭の糸と同じ良質のメイド・イン・インドがバローダ・レーヨンに生まれることは、最大の品質広告になるだろう。

周囲には米国技術があり、スイス技術があり、糸メーカーである旭化成自身が技術援助した製品の質を広く示すことができるからだ。

工場の敷地は35万坪。旭化成のレーヨン工場の約2倍という、とてつもない規模になる。工場建設はスピーディーに行われ、鍬入れから1年半後には糸を出す計画だ。

その間、バローダ・レーヨンの幹部十数名が来日して3ヶ月にわたり延岡で原液、紡糸、仕上げなどを勉強し、親会社のナショナル・レーヨン社で作業員の養成を行なった。糸が出始めて3ヶ月の間は現地で運転指導を続けるなど、万全のサポート体制を敷き高評価を得た。

日本初の試みであり、海外でも例の少ない「糸メーカーの直接指導」を行ったことで、海外でも注目度が高かったレーヨンの技術輸出。旭化成では2001年にレーヨンの生産を停止したが、バローダ・レーヨン社では現在も生産が続けられている。

  • バローダ・レーヨン社の35万坪の広大な敷地
    (社報あさひ1960年2月11日号)