100 Stories1967 ALC「ヘーベル」

旭化成を支える事業の一つに成長した建材部門。その立ち上げは、30億円近い赤字を出すところから始まった。1959年に「三種の新規」の一つとして事業参入が決定された「建材」は、1960年代に入るとソ連からALC(Autoclaved Lightweight Concrete)技術を導入し、1963年にシリカリチートの生産を開始する。

しかしその翌年には、「シリカリチート」は日本の風土に合わないとの判断が下された。社長の宮崎輝は「累積赤字額は30億円近くに上ってしまった。ついに私もシリカリチートの事業継続を断念せざるを得なかった。慣れない分野とはいえ、事前の調査がいかに大事であるか身にしみて感じた」と語っている。

このソ連方式は完全に放棄したが、日本の風土に合った、旭化成独自の技術開発を続けた。原料、製法、大型ブロック槽、カッティング技術の開発などであるが、切断前後のブロック、ハンドリングが大きな難題として残った。

そのような折、西ドイツの駐在員からALCを製造するヘーベル社の情報が入り、早速工場見学のため元シリカリチート開発部長の黒田義久ら数人がドイツに渡った。見学に行った者は驚きを隠すことなく「カッターを見たら、いっぺんにこれは是非とも技術導入しないといけないと思った」「この技術が日本の他の企業にライセンスされることなしに、よく残っていたものだ」「ヘーベルカッターやグリッパーを見てビックリ仰天した。我々の旭式カッターがこうなるまでには何年かかるだろう」などと語ったものだ。

ちょうどその頃、ヘーベル社に対して日本の他社からも技術導入したいという話が来ていたようで、旭化成側は即決の態勢で交渉の席に並んだ。ヘーベル社は先に交渉していたもう1社に、旭化成との契約締結の前に三日間の猶予を与えたが、その返事はなく、旭化成が独占契約を結ぶこととなった。

1967年に松戸でヘーベルの製造が開始。その後の成功はこの時の社員たちの決断の正しさを証明するのに十分すぎるほどである。契約時には「あの強気な黒田君が契約にサインした時、“これで継続できる”と言って涙を流したことを今でも覚えている」と宮崎が語るなど、「なんとしても手に入れたい」というチームの強い意思が契約に繋がった。

  • 松戸工場