100 Stories1958 医薬品事業の始まりと東洋醸造

旭化成100年の歴史の中でも、一際大きな役割を果たした会社がある。1871年に脇田酒造店として創業し、旭化成創業より少し早い1920年に改称した東洋醸造だ。

東洋醸造は、日本酒・焼酎・ワイン・ウイスキーなどの製造を手がけ、戦後には薬品事業と食品事業にも参入。総合発酵工業メーカーへと成長を遂げる。

旭化成との提携が開始されたのは1958年のことだった。そして、提携とほぼ同時期に東洋醸造は、敵対的な株式の買い占めをされてしまう。協力を求めた旭化成が資本参加をすることで難を逃れたが、それを契機に両社の関係性はより密なものになった。

旭化成からは3人の役員が派遣され、そのひとりが小川三男だった。小川は以降30余年に渡って東洋醸造の舵取りをすることになる。東洋醸造と旭化成の関係において、最重要ともいえるキーマンが加入した瞬間だった。

経営力に長けた小川の加入は医薬品事業の初期段階ですぐに大きな成果を出す。小川は利益を向上させるために、次のような考えを伝えていた。

「医薬品の中に検査薬というものがあります。検査薬は原料の酵素で売ると、大した金額にはなりません。それをすぐ使えるキットとして商品にすると5倍から10倍の値段になる。末端商品はいかに付加価値をつけるかということが決め手になります」

医薬品事業を始めるときに、それぞれの商品でしっかりと利益を出す構造をつくるという小川の考えは、東洋醸造の大きな武器となった。

業務提携から約10年後の1969年、旭化成は独自の技術で製造していた有機化合物「イノシン」を東洋醸造に販売し始める。これが現在の医薬品事業の出発点となった。

旭化成の医薬品事業は、東洋醸造とは反対に、医薬品の最終製剤を製造販売するのではなく、医薬メーカーへの原料提供を行う事業として誕生した。医薬製剤の販売や研究には、膨大なヒト・モノ・カネがかかり、自社ですべて行うには限界があったためだ。

旭化成と東洋醸造がそれぞれの道で成功を収め、迎えた1992年。この時期の最大の経営戦略とも言われる東洋醸造との合併が発表された。会長の宮崎輝は合併にあたり「医薬は成長性に富み、利益性の高い事業であるため、世界の化学会社が力を入れている事業である」と述べ、事業展開に強い決意を示した。

この合併のきっかけとなったのは、当時急激に国際化した医薬業界に欧米諸国が進出してきたことである。これに対抗するためには、年間100億円以上という莫大な研究開発費が必須だ。単独で生き抜くことは厳しいが、東洋醸造では年間60億円、旭化成は年間50億円の研究開発費があり、合併すれば世界とも対等に渡り合えた。

さらには、東洋醸造には500余人のMR(医薬情報担当者)と60件の卸店、医薬品を納入している病院など、人材と販売ルートを保有していた。これを旭化成が独自で作るとなると、5年以上の年月と莫大な経費が必要になる。予算規模以外の面でも合併には大きなメリットがあった。

合併の効果は程なくして表れる。東洋醸造から引き継いだ免疫抑制剤「ブレディニン」の売上高が、前年の2倍以上に成長。旭化成の主力の医薬品だった骨粗鬆症治療剤「エルシトニン」に次ぐ実績を上げた。そのエルシトニンも合併後に順調に売上を伸ばしていき、医薬事業の売上の半数近くを占める中核商品に成長していった。

現在の医薬事業は医療用医薬品と診断薬からビジネスを展開している。医薬品では、整形外科を中心に救急・集中治療、泌尿器、免疫、中枢神経などの領域で、新薬を送り出している。この発展の裏には、重要なパートナーとして強い絆で結ばれていた東洋醸造の存在があった。

  • 東洋醸造 医薬品工場(大仁、1990年)