100 Stories1974 ヨーロッパへの先陣を切る APRヨーロッパ

印刷はグーテンベルクによる発明から、1960年代までの500年余り、基本技術がほとんど変わっていなかった。旭化成では技術革新による商品代替の可能性が高いと判断し、公害や労働災害の源となっていた鉛版に代わる次世代型商品として、感光性樹脂の開発を進めた。

化薬事業では、火薬の光で変色・分解する物質が知られていたが、ポリエステル系樹脂と組み合わせて感光性樹脂を開発したのは1968年だ。ユーザーとなる新聞社と提携して「APR」(液状感光性樹脂)製版システムを開発し、1970年には感光性樹脂と製版装置、技術ノウハウを一体としたシステムを発売した。これをアメリカのハーキュレス社に技術輸出したことから、世界的に「APR」が評価されるようになり、1973年には富士で本格的な生産を開始する。

世界的な評価を得た「APR」をヨーロッパでも生産・販売するために、1974年に丸紅と共同出資の現地法人APRヨーロッパをベルギーに設立。感光性樹脂はその将来性から大きな需要増が見込まれる分野と言われていたが、日本企業が感光性樹脂部門で海外進出するのはこれが初めてだった。また、旭化成にとっても最初のヨーロッパにおける販売会社となる記念すべきものだ。

1981年には旭化成ヨーロッパに社名変更し、「APR」だけでなく、旭化成グループの販売拠点と位置付けられた。「APR」は、1日に何度も製版し印刷を行う新聞業界で高く評価され、確固たる地盤を築いている。ヨーロッパでの「APR」の評価を知る好例として、イギリスのサッチャー首相が訪問したということがある。これは、イギリスの新聞社の印刷製版に「APR」が採用されたことで実現したもので、当時の新聞に掲載された写真は今でも永久保存版となっている。

1998年10月には、旭化成ヨーロッパおよび旭化成ドイツの解散に伴い、感光材事業を行う、旭フォトプロダクツとして営業開始し、現在に至っている。

「APR」の主要ユーザーとなっている新聞の印刷機は、1日たりとも止まることを許されないものだ。そのためには24時間体制のフォローや日常的なメンテナンスなど、これらを実現するためには即時対応できるテクニカルサービスの配置が必要となる。それには、技術と経験を持った人材も欠かすことはできず、20年以上の経験を持つ人や、実際に2世代に渡って働いている従業員もいる。「APR」の成功は、優れた技術力はもちろんだが、その根っこを支える"人"の力が大きな役割を果たしている。