100 Stories1987 仕事を編み出す、スキルを編み出す「アミダス」

ドラマ「ハケンの品格」が大ヒットするなど、世間でも大きく注目される機会が増えた派遣社員。1986年の「労働者派遣法」の施行を受け、旭化成でも、男女雇用機会均等法の実施や高齢者雇用促進法に対応する事業として、1987年にアミダスを設立した。

日本では1960年代に米マンパワー社が日本法人を立ち上げ、1970年代はテンプスタッフやパソナなどの人材派遣大手企業が設立している。

アミダスは、職場で経験を積んだものの結婚や育児などで退職した女性の社会復帰や、特別な技能・知見をもつ社員に定年後の労働の機会を提供することを目的とし、旭化成グループ内を中心に派遣を行った。

女性の場合は文書管理を始めOA機器操作、貿易業務などスキル登録型の人材派遣を行う。一方、男性の場合は、主に若年労働力不足の一助として派遣を行った。

当時アミダスに登録していた女性従業員は「80年代後半までは、どの会社も結婚を機に退職するのが当たり前で、今のように正社員として転職や再就職は夢のまた夢でした」と語っている。派遣先が様々な大手企業と異なり、アミダスは旭化成グループ内という安心感もあった。

「アミダスの給料は他社と比べても決して高いわけではありませんでしたが、職場環境が良いので、旭化成OBでない友人も何名か紹介しました。」と当時の様子も語ってくれている。

バブル景気の中でアミダスは大きく発展していき、1988〜1992年にかけて大阪・横浜・宮崎・名古屋に次々と支店をつくった。スタート時は、女性は旭化成を退職した人だけが対象であったが、急拡大とともに旭化成以外の仕事をしていた人や事務の経験がなくても登録ができるようになるなど、順調に広がりをみせていった。

一方で紹介事業は、バブル崩壊後旭化成グループの中高年管理者を中心に他企業への出向や再就職の斡旋などに事業を広げて紹介件数を伸ばした。1994年からは科学技術庁科学技術振興事業団の技術情報データベース作成業務に協力して、文献の抄録・索引作成、英文データを受託。

この実績を活かしたテクノリサーチ事業として、技術翻訳、中小企業技術支援などへと事業を展開するとともに、1998年には旭化成の豊富な技術ノウハウを活かして、ISO取得のコンサルティング事業も開始した。

1996年には旭化成アミダスへと改称し、翌年には人事勤労事務全般を請け負う延岡マネジメントセンターを設立するなど、事業は急伸を続けた。事務所地区では一般職の採用がなくなり、書類の作成、ファイリングや整理、データ入力や電話応対・来客応対などの事務業務全般の担い手となっている。また、定年後の働き口としても機能し、定年退職後も派遣社員として長きに渡って、旭化成に貢献し続ける元従業員も多く存在している。

現在は、育成型派遣による専門職派遣やミスマッチを防ぐ新卒派遣など、より多くの人がより働きやすくなるため柔軟な派遣形態に進化中である。

法改正と共に変化してきた人材派遣だが、自分の能力や特性、専門性を生かして働く人が増え、今後も様々な「派遣」という働き方が増えると予測されている。