100 Stories1970 日米繊維交渉

宮崎輝が日本の繊維業界を代表して米国との交渉にあたったことがある。1969年にアメリカでリチャード・ニクソン氏の大統領就任を機に起きた「日米繊維交渉」がその舞台だ。

ニクソン氏は大統領選にあたり、繊維産業の票固めとも言える狙いで「当選の暁には、毛・化合繊も含め、全繊維製品の輸入規制問題を関係各国と話し合う」といったことを画策していた。当時、日本化学繊維協会の会長に就任していた宮崎は、ニクソン氏の大統領就任とともに動き出した米国に対し、日本の繊維業界を代表する立場にあったのだ。

日米の担当大臣同士で行われた最初の会談は、国会の輸入規制反対決議もあり決裂。しかし、この半年後に行われた日米首脳会談で不穏な動きを感じることとなる。これは沖縄返還(1972年)が決まった歴史的会談であったが、「糸(繊維)を売って縄(沖縄)を買った」という日米密約説が広まったのだ。

この真偽はわからぬままであったが、米国側は二度にわたる厳しい規制案を提出。宮崎は日本繊維産業連盟の結成や国会議員への働きかけなど規制阻止に奔走し、ついには過労で2ヶ月の入院を余儀なくされるほどであった。

それでも事態は好転せぬまま、再び開かれた日米首脳会談で繊維問題が公式の議題となり、政府間交渉の再開で合意。これに対し、全国から繊維業者を集めて総決起大会を開き、同時に行った抗議のデモ行進では、宮崎がハチマキ姿で先頭に立った。

だがこの頃、日本の繊維業界が自主規制に踏み切れば、米国側は輸入制限法案を撤回するという感触を掴み、日本政府からも日米経済関係にヒビが入ることを避けるためにも非公式で自主規制の要請が来ていた。この状況に宮崎も「自主規制もやむなし」と腹を決め、米国側の意向も十分に取り入れた自主規制案を公表する。政府も政府間交渉の打ち切りを宣言し、総額489億円の救済措置を決定。ここに日米繊維交渉は終結したかに見えたが、事態は急変する。

ニクソン大統領が「日本の自主規制は認められない」との声明を出したのだ。一気に強硬な姿勢を見せてきた米国側は「政府間協定に応じなければ、米国は一方的に輸入制限を実施する」という、最後通牒を突きつける。ここに至って政府は自主規制による解決を諦め、政府間協定に調印。内容は期間3年の個別規制方式で、伸び率が化合繊5%、毛1%という厳しいものであった。こうして日米繊維交渉は不本意な解決を見たのだった。

しかしながら、結果的に繊維業界は実質的なメリットを得ることができた。ひとつは日本政府から1800億円余りの資金を調達したことだ。繊維等の買い上げ代489億円の他に、低利の資金を1300億円余りも借りられたから、繊維業界は破綻せずに済んだのである。

もうひとつは、3年間交渉を頑張ったおかげで、韓国、台湾、香港から安い繊維製品が大量に流れ込んでくるのを防いだことだ。日米繊維交渉の長期化で、これらの地域と米国の協定締結も延び、その間に韓国、台湾、香港は対米輸出を3倍に増やすことができた。

こうして宮崎が先頭に立って行われた日米繊維交渉は幕を閉じた。

繊維メーカーとして、当時は東レ、帝人などフロントランナーがいたにも関わらず、業界の代表として交渉にあたった宮崎。旭化成中興の祖として広く知られる宮崎であるが、この日米繊維交渉も、その活躍を知るための一つのエピソードとなっている。

  • 日米繊維問題で政府代表と会談する業界代表
    左から2人目が宮崎