100 Stories1974 海外事業の先駆けとなったインダチ

インダ(INDAH=美しい)チ(CCI=水)という現地では響きの良い略名を持つインドネシア旭化成(INDACI)。旭化成の本格的な海外事業の第一号だ。

INDACI は、1972年にインドネシアにおけるナイロン6の製造販売とアクリル紡績・染色事業を目的として、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、野村貿易との合弁会社として設立した。

1974年には、カシミロン紡績工場とカシミロン染色工場、ナイロン工場がそれぞれ操業を開始し、商業生産に入った。この頃オイルショック後の最も景気が良くなかった時期とも重なったことで、旭化成をはじめ、東レ・クラレなど各社が開所式を行わなかった。

そこで、操業から2年後の1976年に16社の繊維工場の合同開所式を開催。式にはインドネシアのスハルト大統領夫妻、ユスフ工業大臣などのインドネシアの要人や、日本からは、旭化成副社長の小林祐二、旭化成インターナショナル社長の倉勝利(くら かつとし)、東レ、クラレの社長など錚々たるメンバーが参加した。実質的には2年前には商業生産に入っていたインドネシア事業だが、この開所式によって正式にインドネシアの企業として認められたと言える。

操業時はオイルショックの影響もあり苦しい時期もあったが、ナイロンの回復は早く1975年には銘柄拡大の第一歩を踏み出す。このような好業績を背景に1979年には設備の増強を開始。操業10周年の1984年には、売上高、利益ともに過去最高の記録を達成した。1990年代に入っても順調に業績を伸ばし、1997年にはナイロンの増設をスタートし第4次の設備増強がほぼ完成した。

しかし、1990年代後半に起きたアジア通貨危機の後、1999年から3年間は業績を伸ばし続けたものの、2002年には世界経済の停滞、国際市場における中国繊維製品の急増などの影響を受けて、業績悪化に見舞われた。その流れを止めることは叶わず、事業環境の急激な悪化の中で清算せざるを得ないと判断。2004年11月に清算・営業を終了し、12月より会社清算を開始することとなる。

当時、旭化成だけでなく他の日本企業もインドネシアから撤収を余儀なくされていた。他社では労働争議が起きるなど、撤収がままならない状況となっている中、INDACIでは、退職金を規定の3倍プラスα支給等により労働争議なし、受注製品完全供給の実現、現地華系法人への入札資産売却、現地日本企業への就職斡旋を行うなど、驚くほど丁寧なものだった。

これも創業以来、インドネシア赴任者が誠意を込めて培ってきた労使関係と、家族ぐるみでレクリエーションや地域行事など交流をしたことの賜物であった。従業員を単なる労働力として扱わず、組合を作るなど従業員を仲間として扱っており、雇用環境の良い会社という評判ももらっていた。

この関係性の良さは、撤収時のエピソードからも垣間見ることができる。工場組合幹部とジャカルタ本社の従業員代表と退職条件の交渉に折り合いがついた時、「他に希望はないか」と尋ねたところ、両者から「記念に家族を交えたレクリエーションをして欲しい」との要望が出たことには、関係者も驚いた。

社長も交えた総勢80人が大型バス2台に乗って、リゾートホテルへの1泊2日旅行をすることになったのだ。浜辺でのレクリエーション、ゲーム、カラオケなどを大いに楽しみ、これから会社がなくなる事を間近に控えた人たちとは思えない一時を過ごした。「美しく生まれたINDACIを美しく終わらせよう!」を合言葉に、旭化成愛に溢れた現地従業員の姿は忘れることができない。

旭化成における海外事業の先駆けとして、30年にわたり躍動したINDACI。長く好業績を残してきたが、世界情勢の急激な悪化により、その終わりは突然やってきてしまった。今でも社名通りの美しい思い出は、関係者の記憶に残っている。

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