100 Stories1941 100年の歴史と和歌山工場

旭化成の100周年より一足先に和歌山工場が100周年を迎えた。1920年に南海紙業株式会社として創立され、その後1941年に旭化成と合併したため、ひと足早く節目を迎えることになったのだ。

南海紙業は全国的にも有名な「紙どころ」であった藤田村(和歌山県御坊市)に立地し、南に水量豊かな日高川があり、その流域には楮(こうぞ)などの最上級の和紙原料が栽培されているなど、製紙事業として非常に恵まれている土地であった。

しかし、その操業は困難から始まる。日高川の大洪水により土台から流出し、建物・原料・製品は壊滅的打撃を受けたのだ。機械器具類は一時冠水したのみで比較的損傷が少なく補修復旧が可能だったが、この洪水から1年で、抄紙機の試運転を行って生産を開始するまでに復旧させ、販路を拡大していくこととなった。

迎えた1933年、日本窒素火薬向けの注文引き合いが初めて行われた。火薬を包装する紙の受注であり、これによって日窒との関係が始まる。後の和歌山工場へとつながる第一歩だ。7年後の1940年、南海紙業は、日窒火薬社長の野口遵を中心に買収の話が進められた。

その後戦火は激しくなり、和歌山工場も軍需関係工場に指定されるなどあったが、爆撃を受けることなく終戦を迎える。戦局が落ち着くにつれ同業の工場が淘汰されていく中生き残った和歌山工場だが、戦後も赤字経営となり人員整理をしたり、台風や洪水被害に遭ったりなど困難が待ち受けていた。

戦後和歌山工場では、耐水性・耐油性に優れる硫酸紙やパーチメント紙を製造していたが、1960年代には、土木用塗料に使用されるアクリルラテックスの生産を開始。防水材の「ペトロック」や粘着増強材の「モルタック」、「ポリトロン」など高度成長時代の土木産業を支えた。中でも建築内外装仕上げ材「ミュールコート」は、販売当初から好評で皇居の一部や首相官邸の一部にも施工された。

  • 和歌山工場、1960年代

さらに1980年代に入ると、プリンターや印刷機で知られる理想科学工業向けの感熱孔版和紙の採用が決定し、主に家庭における年賀葉書の印刷用として爆発的に普及した「プリントゴッコ」や、事務用のシルクスクリーン印刷機「リソグラフ」で和歌山工場の製品が採用されていた。

  • 社内報で紹介されたプリントゴッコの記事
    1970年代

1990年に社内にて安全努力賞を受賞。93年には無災害時間数180万時間として、安全社長賞第一種を表彰された。危険予知訓練や4S活動、VM(ヴィジュアルマネジメント)活動などを展開することで、賞を受賞するまでになった。

2000年以降もラテックスをベースとした新事業である光触媒塗料事業がキックオフされるなど、精力的な活動を展開していくが、少子化やペーパーレス化などの影響を受けて紙事業は市場規模が縮小。2016年に機能紙事業は撤収を決定した。

これにより南海紙業から続いた製紙業は96年の幕を閉じることとなる。それでもアクリルラテックス・光触媒の2事業にて操業を継続し、2020年に工場創立100周年、アクリルラテックス操業50周年を迎えた。

100年という節目まで存続を続けた和歌山工場だが、「アクリルラテックス」と「光触媒塗料」の事業から撤退することが決定し、2022年に和歌山工場の生産は停止された。