100 Stories1952 「サラン」の技術輸入から始まった旭ダウ

旭化成の主要事業のオリジンとなった会社がある。「サラン(塩化ビニリデン)」繊維の事業化に当たってダウ・ケミカル社と提携して設立した旭ダウだ。

戦後、旭化成ではナイロンと塩化ビニリデンを並行して研究していた。二つの選択肢がある中で、自社技術が確立していたことに加えて、塩素の利用が可能であることから塩化ビニリデンの事業化を優先。副産物である塩素を原料とすることは、低コストでの供給が可能になるとともに、旭化成として塩素を利用した新しい工業分野の開拓を目指しているところとも合致した。

しかし、ポリマーの品質や紡糸技術など、自社内で解決できない問題が数多くあることから、企業化を早期に実現するためには海外の先進メーカーから技術導入を行う必要があった。その結果、「サラン」という商標で塩化ビニリデン繊維の製造を先行して行なっていたアメリカのダウ・ケミカル社に、技術提携の申し入れをすることとなる。

こうして旭化成とダウ・ケミカル社が、出資比率を50:50で設立した新会社の旭ダウが誕生。旭化成が2億円を出資、ダウ社が「サラン」繊維の製造技術及び日本特許実施権、「サラン」の商標権並びに「サラン」繊維の製造ノウハウ等を2億円に評価して現物出資するというものであった。

ダウ社にとっても初の海外の合弁事業であったが、旭化成による「技術はダウから出してほしい。旭化成はヒトとカネを出すので、日常的な経営は日本側に任せて欲しい」という提案も全面的に受け入れた。

製造工場を建設して生産開始した旭ダウであるが、その立ち上がりは予想外に苦戦を強いられることとなる。アメリカでは「サラン」の特徴を活かして自動車の座席シート等に使われていたが、日本ではまだ乗用車が普及していなかったため大きな需要は期待できなかったのだ。

そこで旭化成は、当面の主要分野を魚網と定めたが、加工技術が未知の分野であったことから操業当初は苦難の連続。この分野の草分け的存在であった東洋組網工業(現、日東製網)と共同開発をすることとし、1955年に「旭鱗(きょくりん)」と命名して販売開始にこぎつけた。

この魚網は一定の成果を挙げたが、用途開拓が進まず、操業開始から3年で7億2000万円という累積赤字を計上。当初の契約通り、その全てを旭化成が負担せざるを得なかった。しかしその「サラン」が、1960年の「サランラップ」の販売開始により半世紀余り会社を支える技術となるのだった。

「サラン」の国産化を果たした旭ダウは、ダウ社との間でポリスチレンの技術導入契約も締結した。歯ブラシや傘の柄、ベルトのバックル、レコードプレーヤーなど多彩な用途を持つポリスチレンの需要は増加を続けていく。

1973年以降、二度にわたる石油危機にもかかわらず、ポリスチレン事業を中心に高収益を実現してきた旭ダウは、合弁会社の中でも優良企業として高い評価を勝ち得てきた。一方でダウ・ケミカル社は、1980年代に入ると安定していた経営に大きな変化が現れる。

収益が低下した結果、市場格付けも低下するなど大きな痛手を負ってしまったのだ。借入金依存から脱却を図るため、韓国やサウジアラビアなどの海外事業から撤退し、旭ダウも撤退の対象となった。

これに伴い、旭化成としては石油コンビナートの一体運営にとって、旭ダウの存在は気になるところでもあったので、1982年、同社との合併を決断。新体制での石油化学事業を再スタートさせた。

合成繊維や合成樹脂といった旭化成の主要事業の源となった旭ダウ社。「サラン」でスタートした鈴鹿工場を中心として、他社にない製品作りは苦難の連続であった。その中で、いかにして付加価値の高いものを商品化していくかということに会社を挙げて努力してきたことが実り、不況にあっても高収益を得る会社となっていた。苦難を乗り越えた旭ダウの奮闘なくして、今日の旭化成の発展はなかったかもしれない。

  • 調査のために来日したチェンバレン氏
    左は宮崎、右は煙石