100 Stories1990 宮崎—延岡コミューターフライト

1990年に起きたヘリコプター機墜落事故は、決して忘れてはならない事故のひとつだ。

1980年代中頃までは、東京や大阪から延岡へ出張する場合、新幹線で福岡まで行き日豊本線の特急に乗り換える、または寝台特急「富士」「彗星」を利用する鉄道か、飛行機で宮崎空港まで行き、空港からバスで南宮崎駅に移動してから日豊本線を利用するなどの方法であった。

当時、延岡・日向地区では年間1万人以上の社員の出張と5000人以上の来客を抱えていたが、宮崎-延岡間は約100キロの距離があり、宮崎空港から延岡までの所要時間は、JR利用の場合は約1時間40分、自動車利用の場合でも2時間10分程度かかっていた。この移動時間を短縮させるため、旭化成は延岡と宮崎空港を結ぶ自社専用のヘリコプター路線を設定し、1989年4月から運航を開始した。

飛行距離は約75kmで、所要時間はおおよそ30分程度、宮崎から延岡まで1時間半の移動時間を3分の1にするものであった。

運行を開始してから1年半余りがたった1990年9月27日、乗員2名、乗客8名を乗せた機体が日向にある牧島山の山頂付近に衝突し、全員が死亡した。定期点検中の旭化成のヘリコプター機の代わりにチャーターした阪急航空の機体で運行中の出来事だった。

この悲劇はなぜ起きてしまったのだろうか。一つ目は天候の急変にある。離陸前に機長は気象予報を聞き、最低飛行条件は満たしていると判断、翌日は天候不良でフライト中止を決定していたが、機長はフライト可能と決断したこと。しかし、台風20号の影響もあり天候が急速に悪化していたこと。

二つ目は、気候の悪い中で低空飛行をしたことだ。地表を確認するために下降した、あるいは機長が空間識失調に陥っていた可能性を事故調査報告書で指摘された。空間識失調とは、主にパイロットが飛行中一時的に平衡感覚を失う状態のことで、事前には発生するかわからない。

国土交通省の事故調査報告書では、原因を「墜落地点付近において顕著な視程障害がある状況下で近傍の山に衝突する可能性がある高度400フィート前後のいちじるしい低高度を飛行したことによるものと推定される」としている。

旭化成でも独自に事故調査を約3カ月にわたって徹底的に行い、ヘリコプター運行再開の是非と今後の計画をまとめ、二つの問題点を指摘し、再発防止を誓っている。

一つ目は、安全運行のためにできること、例えば普段から多くの工場を安全操業しており、そのノウハウを活かす事ができたのではないかということ。

二つ目は、委託先を安易に変えてしまったことだ。本来は、旭化成が所有するアエロスパシアル機(JA9920)を日本エアシステム(JAS)が運航・整備する。機体が整備などで運用を離脱する際にはJASが代替機を用意することとなっていた。しかし事故当時、代替機を用意することが出来ず、簡単な審査で、定期点検中の1か月間の運航を阪急航空に委託した。方針や原則を軽視して判断をしてしまったことであった。

そして、安全確保の方策および再開に関する見解として、ヘリコプターの運行再開は断念すると結論付けた。

この事故ののち、宮崎~延岡間の移動時間の削減に向けて、地方自治体と連携して新たな方向に舵を切った。当時は東九州自動車道路の建設が進まぬ段階で、軌道の強化や特急列車の通過待ちの軌道施設や線路の設置などにより、日豊本線の延岡~宮崎83.7kmの高速化に取り組み、また1996年には宮崎空港の旅客ターミナルに直接乗り入れる宮崎空港線の開業に尽力した。そして2014年には東九州自動車道が開通している。

  • 遺影の前で弔辞を述べる会長の宮崎
    (社報あさひ1990年11月号)