100 Stories2001 第17代日本商工会議所会頭、山口信夫

元読売巨人軍オーナーであり、読売新聞代表取締役主筆の渡邉恒雄氏が兄と慕う人物がいる。会長を務めた山口信夫だ。

山口は、会長の宮崎輝の秘書を務めていたが、その有能さから右腕とまで言われる存在へと駆け上がった。その交友関係は広く、先述した渡邉氏などの実業家のほか、元内閣総理大臣の中曽根康弘氏、麻生太郎氏など錚々たる面々が顔を揃える。

山口は秘書として宮崎の信頼を得た後、1974年に赤字部門となっていた住宅事業部長に就任。グループ内で最も利益を上げる部署へと転換させた。今でこそ全国的な知名度のある「ヘーベルハウス」だが、草創期は大赤字だった。その改革を見事に成功させ、事業を軌道に乗せた。

当時のことを元副社長の土屋友二(つちや ゆうじ)はこう振り返る。

「山口さんの言葉は今でも心に残っています。勇気と積極性を持って、高い目標を達成するまでとことんやり抜く。絶対に達成するんだという気概と信念を持って取り組んでこそ、自らの人間力を高める喜びがある。そう伝授してくれたのが印象的でした」

目標達成に向けた強烈なリーダーシップと、自らが手本となり率先して動くことでヘーベルハウスを主力事業にまで育て上げた。

また、山口を語る上で社外での活動も欠かすことはできない。外務省顧問のほか、読売新聞グループ本社監査役、日本テレビ放送網取締役などを歴任。2001年には日本商工会議所・東京商工会議所会頭に就任し、中小企業の振興にも尽力した。

「健康な日本」を合言葉に中小企業の声を代弁し続け、地方都市のまちづくりを推進した。当時は国民的人気を誇った小泉内閣の構造改革真っ只中だったが、地域経済や中小企業の活性化を訴え続けた。

「小泉さんは強烈な方で、中々こちらの意見を聞いてもらえず、非常に大きな壁だった」と小泉首相に対しても毅然とした態度で対応し、当時世論を味方につけていた小泉首相に軌道修正を迫った。

類稀なるリーダーシップで、社内はもちろん日本全体にも大きな影響力を誇った山口。その素顔は、温かな気遣いの人だったと当時を知る従業員が語る。

「仕事納めの日にはひとつひとつの部場をまわり従業員へのねぎらい」「海外ミッションや視察などに同行するときの家族への気遣い」「プロフィール写真撮影の際に細かなリクエストにも何度でも対応」など、山口の気配りには脱帽する従業員も多かった。

大きな壁に立ち向かう勇気に加え、きめ細かい優しさも兼ね備えた人間力で多くの人を魅了した山口。また、旭化成から財界の代表を務めたのは山口だけである。その人柄と功績は2010年に逝去してからも社内外で語り継がれている。

  • タイのタクシン首相と会談する山口(左)(2002年)