のべおか新興の母ー野口遵5. 事業家としての躍進

水俣工場における野口氏は、品質改良のため昼も夜も不眠不休の努力をつづけ、文字通り寝食を忘れて研究に没頭しました。何か良いアイデアがうかぶと夜中でも飛び起きて、寝巻のまま工場にかけつけるありさまでした。その結果として、カーバイドの品質は上がり、これまで製造工程で最も難しいとされていた石灰窒素の電気炉も改善され、操作も順調になって多年の苦心はむくわれました。

鏡(かがみ)工場を建設

このように石灰窒素の製造に成功した野口氏は、さらに、出力7,000キロワットの白川(しらかわ)発電所(熊本県阿蘇郡)と鏡町(かがみまち)(現・熊本県八代市)に硫安製造の鏡工場を建設したのでした。ここでの製造工程は、カーバイドから硫安という製品が一貫した流れ作業で造られるもので、今でいうオートメーションシステムでした。

  • 建設当時の鏡工場

1914年5月、その日は、野口氏をはじめ従業員全員が徹夜で製造運転に当たっていましたが、夜更けにおよび、長い間待ち望んだ純白で雪をもあざむくような硫安が、1トンばかり造られた時には野口氏を取り巻いて思わず歓声があがったものでした。

これこそ、日本における空中窒素固定法による硫酸アンモニウムであり、わが国の化学工業界に一大センセーションを巻きおこす記念すべき出来事でした。
そのころから、わが国の硫安の需要が次第に増加しはじめましこ。それまでは、ほとんど値段の高い輸入品にたよっていたのでした。野口氏はこの硫安を日本窒素鏡工場で造り、はじめて自家発電による窒素肥料工場となりました。
鏡工場の硫安の売れ行きは順調で大変良く採算もとれるようになりました。創立以来、約10年間で、日本窒素会社は確実な歩みをたどるようになりました。その間、第一次世界大戦で、わが国の景気は良くなり、硫安の値段も上がり、野口氏は次々と事業を拡大していきました。野口氏の事業家としての熱意と努力に拍車がかかりました。この発展は、まさに電光石火の早業(はやわざ)であったと言われています。
1918年、野口氏は肺炎にかかり、一時は重症に陥り、生死を危ぶまれましたが、幸いにして、何とか全快しました。
元気は取り戻したものの、第一次世界大戦後の世界経済の大混乱は、日本にも大きな影響を及ぼし、再び世の中が不景気になり、株価も暴落してしまいました。このことが、野口氏の事業に影響を及ぼさないはずはありません。外国産の価格の安い硫安が大量に輸入され、国産硫安の需要が落ち込みました。しかも、石灰窒素の特許期間も、そろそろ満期になろうとしていたのでした。
この行き詰まりかけた状態を打開するのと、新しい技術の調査をめざして、1921年、野口氏はヨーロッパ旅行に出発しました。そこで見つけたのが、水と空気を原料として肥料を造るカザレー式アンモニア合成法でした。

カザレー式アンモニア合成法の特許権を取得

野口氏はヨーロッパ旅行中イタリアの化学者ルイギ・カザレー博士と出会う機会に恵まれました。そして運よくもカザレー博士の発明したカザレー式アンモニア合成法の特許権を得ることに成功したのです。
カザレー博士と出会ったことは偶然の出来事であり、思いがけない収穫であったとしか言いようがありませんでした。
イタリアのテルニーにある工場を見学できたことは野口氏にとって大きな喜びでありました。カザレー博士のアンモニア合成はこの小規模工場で行われていたのです。
野口氏はここで、アンモニアの臭気に魅せられてしまったのです。
「これはものになる」と思いました。
野口氏はただちにカザレー博士と特許権を手に入れるための交渉に入りました。
その当時のイタリアはインフレーションで貨幣価値が下落していましたが、1,000万リラ(現在では約10億円)ならこの権利をゆずってもよいとのことでした。権利取得に時間をかけすぎてせっかくのチャンスを逃してはならないと思い、取得の話を進めました。

  • カザレー博士

しかし、権利取得の肚(はら)は決めたものの、なにさま1,000万リラという大金のかかる交渉であったため、自分一人で決定するというわけにはいかず、2週間の猶予をもらい、スイスのベルンヘ行き、そこから大阪の日本窒素本社へ連絡をとりました。
野口氏の決断は早く、会社の承諾を得ると、すぐローマに引き返し1億円の手付け金を支払い仮契約を結んで帰国しました。
1921年12月、野口氏は再びイタリアに行き、カザレー博士との間に合成法の特許権およびこれに関するいっさいの機械類購入の契約書に調印しました。
特許権取得に大金をつぎ込む決断と勇気は彼に先見の明があったからです。この特許権取得が後の野口氏の事業をゆるぎないものにしていくことになりました。