のべおか新興の母ー野口遵7. 延岡から朝鮮半島へ

野口氏が世界的事業家として、後の世にその名を留めるようになったのは、朝鮮半島における水資源の開発とその電力を利用しての化学工業の経営です。

すなわち、現在の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)における赴戦江(ブジョン)、長津江(チャンジン)の水源開発、その電力を利用しての興南(フンナム)における化学工業及び鴨緑江(アムノック)水豊(スープン)ダムの建設です。
野口氏が朝鮮半島への進出を決意したのは、まだ延岡工場の拡張の最中で、1925年6月にははやくも赴戦江開発のための測量隊が人類未踏の北朝鮮の険しい山々に挑みかかっていました。
野口氏がなぜ、朝鮮半島への進出を決意したのかは、次のような事情があったからです。
野口氏が国内で事業を進めるにあたって強く感じることは、もっと安くて豊富な電気が欲しいということでした。
それは、当時、硫安肥料の消費が拡大して、いくら生産しても追いつかず、多くを外国から輸入するという状況があったからです。外国からの輸入硫安に対抗するだけの安い国内硫安の増産が求められていました。そのようなことから野口氏は延岡工場の拡張にあきたらず、さらに大規模な硫安工場の建設を考えていました。そのためには、安くて豊富な電気が必要になってきます。
すでに、前々から国内各地に開発可能な電源地をさがしていました。屋久島(やくしま)の開発を計画し、自らも実地調査に当たったこともありました。しかし条件が整わず実現しませんでした。そこへ浮上したのが朝鮮半島での電力開発事業でした。

赴戦江(ブジョン)開発
川の流れを逆流させることができるなら

朝鮮半島の地勢は、その脊梁をなしている長白(チャンパイ)山脈が中国との国境付近を走り、北朝鮮の日本海側は山々が重なり合い一大障壁のようになっています。それに反して西側は、一体に高原地帯を形づくり長白山を源とする河川は、おおむね緩やかな傾斜で西流して黄海(こうかい)へ注ぎます。
各河川は、夏季と冬季とではその流量に非常な差があり、冬季にはひどく渇水します。
このことから、一般に水力電気の発源地としては不適当であるとされていました。
しかし、地図をよく調べてみると、必ずしも絶望ではありません。
「そうだ!鴨緑江の3本の支流を堰き止めて、その水をトンネルを掘って日本海側に逆流させることだ。千メートルの落差を利用して、大規模な発電所が造れる」
このようにして鴨緑江の支流である赴戦江と長津江に目が向けられました。
昔、朝鮮は清朝(しんちょう)に対して、「鴨緑江の水が逆流するとも貢ぎ物は絶やさぬ」と誓ったことがあったそうです。
誰が鴨緑江の水が日本海に流れ込むことを予想し得たでありましょう。
「川の水を逆流させることができれば電気を起こすことが出来る。」誰もが夢にも思わなかったこの奇想天外な発想に端を発した大事業への挑戦が始まりました。
野口氏は、一旦計画を立てると、ただ机上のプランだけでは満足せず、どのように気候や土地条件の悪い所でも、自ら陣頭に立って自分が納得いくまで十二分に現地を踏査するのが常でした。
今回もまず地図の上で研究し、実現可能の見通しがたったので、実際に現地に出かけ踏査して確かめました。その結果、すこぶる有望であるとの確信を得ました。
ここに、私たちは、次から次へと事業を計画し、仕事を追っかけていく野口氏のたくましい行動力と理論・実践・証明という科学的な姿勢を見ることができます。
1926年、まず、事業を進めるのに必要な会社を資本金2,000万円で設立し、朝鮮水電株式会社と名付けました。
赴戦江開発の内容は、その全領域を堰き止め、周囲78キロメートルに及ぶ大貯水池を築造すること、堰堤(えんてい)を建設すること、河川の水を東へ逆流させ日本海側へ流すために分水山脈を貫通する延長28キロの大隧道を掘削すること、水圧鉄管を敷設すること、1,000メートルに達する高落差で八百数十個の水力発電所を建設すること、鉄道インクラインを施工することからなり、総工費5,500万円、当時としては東洋一の大工事でした。
こうして、奇想天外な着想から出発した工事は、1930年に完成し、20万キロの電力を得ることに成功しました。

  • 赴戦江堰堤

ところで、分水山脈の貫通工事に関わることでこんな話が残っています。大隧道の掘削作業を請け負ったある土木会社が、契約金が安かったとみえ、実際の工事費はそれをかなりオーバーしてしまいました。このように下請けの会社が無理をして、損をした場合、野口氏は、このことは自分の責任だとして、お金を追加して支払ったということであります。
このような世界的大事業を成功に導いたものがあったとするならば、その陰に野口氏の人間性と、事業を支えた人々の温かい心の支えあいがあったことを見逃してはならないと思います。

  • 赴戦江発電所

興南(フンナム)工場建設
世界第2の化学工業都市建設をめざして

赴戦江の流れを逆流させ、念願の20万キロワットの電力を手に入れることには成功しましたが、ここで一つ問題にしなければならないことがありました。それは、せっかく苦労して手に入れたこの電力を何に使うかということであります。
なにしろ、山々が折り重なり、辺鄙(へんぴ)な北朝鮮の山奥ですから、ここで、何十万キロワットという大規模な発電所を設けたところで、その電気を消化する生産工場の無い限り、いたずらに、資本と労力を浪費するだけで、俗にいう宝の持ちぐされになってしまいます。

電力を供給する発電所から、さほど遠く離れていない所で、この電力を使って工業が起こせる工業用地として開発可能な用地がなければなりません。野口氏は赴戦江の開発計画を進めるに先立ってこのことを十分考え構想を練った上で事業に着手しています。実は、この地が興南だったのです。
野口氏は事業を遂行する上で、全体を洞察し、先を見通すのに鋭い感覚を持っていました。
開発前の興南は20~30戸の家屋が散在する淋しい漁村にすぎませんでした。それがわずか10数年足らずで世界に誇る一大化学工業都市に飛躍したのでした。
野口氏は1927年、資本金1,000万円で、興南に朝鮮肥料株式会社を設立し、肥料、その他の化学工業を興すために興南工場の建設を始めました。
工場は着々と整備が進み、世界一の肥料工場をはじめとし、工業薬品、油脂、マグネシウム、亜鉛、カーバイド、合成宝石、カーボン、火薬、航空燃料、人造ゴム等の諸工場が建設され、鉄道、港湾その他の付属設備を完備し、工場と住宅の敷地合わせて5百数十万坪(1,700ヘクタール)、工場従業員47,000人、総人口18万人に達する都市に成長しました。
街には煉瓦造りの工場をはじめ倉庫や事務所はもちろん、多数の従業員を収容するための住宅、娯楽設備、運動施設、病院、学校、郵便局、役場、集会所、警察署等の諸施設が備わっていました。しかも、これらの施設は、当時としては驚くべきことに、全部が煉瓦造りであり、水洗便所をもち、完全に電化され、冬は蒸気暖房の施設を完備していました。

  • 興南工場

世界において、これに匹敵する工場があるかどうか、種々の資料を集めて調べてみました。それによるとその規模において、同時代のドイツEG会社オッパウ工場に次ぐ世界第2の化学工場であり、興南工場をしのぐものは、イギリス、フランス、アメリカにもないことがわかりました。
日本で仮に興南工場と比較するにたる工場となれば、大牟田(おおむた)工場群か新居浜(にいはま)工場群ということになります。しかし、両方とも日本有数の財閥が、古くから存在する確固たる基盤の上に、何十年かの歳月をかけて成立させたものであります。
一個人としての野口氏が、財閥の背景もなく、政府の援助も受けずにほとんど独力で、しかも短期間の内に、世界に驚異ともいうべき大事業を成し遂げたのとはわけがちがいます。
野口氏の事業は、常に発電所と工場を車の両輪のように展開していきました。発電所ができると、その電力を利用する工場を建てる。工場が発展して再び電力が足りなくなると、新たに電源を探す。氏の目は常に未開拓の分野、土地に注がれていました。その過程で障害や難関が起きると、ますます、闘争心をかき立て、ついに海外にまで拡張していってしまったのです。
これまでに赴戦江開発、興南工場建設のようすを見てきましたが、これらの事業を成功に導いたものがあるとすれば、それは何であったのでしょうか。
まず、事業に注ぐ野口氏の「すさまじい気迫と情熱」があげられましょう。
つぎには、未開拓の地に積極果敢に挑んでいく野口氏の「フロンティアスピリット」をあげることができると思います。それも、純粋さが感じられます。

  • 社員と家族のために造られた興南工場のすばらしい社宅
  • 病院
  • 高等女学校

野口氏と親交のあったある人物は、「野口さんの行動には、戦時中のような植民地主義のにおいがなく、すがすがしさがある。それは純粋な開拓精神に突き動かされていたからである」と語っています。
興南時代の野口氏は「安くて良い肥料が供給できれば農作物もうんと豊富になり、朝鮮の農民の生活を安定させ、ひいてはそれが商工業振興にもつながる」と口癖のように独り言を言っていたそうです。
晩年、野口氏は戸籍を日本から興南に移し、ここを終生の地と定めました。
興南時代の野口氏について、その人柄を知る上で参考になる次のようなエピソードがあります。これは当時、興南工場に勤めていたある社員が書き記したものです。
「それはたしか1939年、初夏の頃だったと思います。当時、私は朝鮮の工場に勤務していまして、年に2~3回ぐらい東京や大阪に参り社用をすませ、朝鮮に帰るのであいさつに重役室をお伺いした際、庶務部長が私を呼んで『君、実は今日、野口さんが朝鮮に行かれるのだが、あいにく都合が悪くて誰も鞄(かばん)持ちを務めることができぬので、一つご苦労だがやってくれぬか』との突然の話でありました。私はまだ野口さんのような偉い方の鞄持ちを務めた経験もありませんし、内心これはえらい事になったものだ、と困惑の色を隠し得なかったのですが、そんなことに頓着なく『島村君が朝鮮に帰るのでちょうどよかったと思います』と野口さんに申し上げ、いやおうなくそのように決まったのであります。

そして、その日の10時何分かの下り急行に、お供をして乗り込んだのであります。野口さんは1等展望車、私はその近くの2等車に座席をとりました。もちろん、野口さんのお話相手ができるわけでもなし、お席のすぐ近くに窮屈な思いをして待っているよりも、クラスが違っているのがむしろ幸いに思われました。そして、汽車に乗り込んだ以上、たいして用事もなし、私は連日の仕事や都会の強い刺激のためだいぶ疲労していたので、何時の間にかぐっすり寝込んでしまったのであります。だいぶ長い間たっただろうと思われる頃、目を覚ましてみますと、私の眠っている胸の上に、新聞や雑誌が積まれていたので、さては野口さんがごー読されたものを、自ら持って来て下さったものと面食らっています時、野口さんが親しくお出でになって、今着いた駅で買い求められたアイスクリームを差し出されながら、『疲れたと見えてよく眠っていたね』と微笑まれて自席に引き返されました。私は野口さんのお世話を申し上げなければならぬ立場にありながら、却ってこういう親切をしていただいてまったく恐縮いたしました。そして、今まで見たり聞いたりしていたあの怖い野口さんの内に、想像だにしなかった温かみのある美しいものを見出して頭が下がる思いがいたしました」
ワンマン社長と言われ、短気でよく部下を叱った話もありますが、庶民的で人情に厚く、技術者を大切に育てられた野口氏の一面が伺える話です。

長津江(チャンジン)開発
土木界での世界記録

長津江は、赴戦江の南、数十キロの地点をこれと並行して北流する鴨緑江の支流です。赴戦嶺から50キロほど離れた黄草嶺(ファチョ)に源を発して海抜1,100メートルの高原地帯を北にゆるやかに流れ、およそ40キロほどいって峡谷に入ります。この地点にダムを築いて流れを堰き止め、これを隧道に導いて逆流させ、日本海側に落として、約33万キロワットの発電を行うというのが開発計画であります。
野口氏が長津江に着目したのは、先に開発した赴戦江で異常な渇水が2年間続き、予期した電力が得られず電力不足に悩んだこと、金解禁の影響を受け、肥料の価格が下落し大きな痛手を負ったこと、今後、興南工場の電気化学工業の拡大を期すためには、さらに大量の電力を必要としたこと等があげられます。

  • 長津江堰堤

野口氏は、日頃から「景気が悪い時に仕事をしなければならぬ。景気がいい時には誰もが金を使うし物も高いが、不景気の時は請負も安い。」と言っていたことから、赴戦江ならびに興南工場完成後の深刻な不景気がかえって野口氏の事業欲をかきたてたとも言えましょう。
1933年6月に工事が開始されました。長津江の工事は赴戦江の工事をしのぐ大土木工事でした。頂長616メートル、高さ38メートル、セメント300万袋を要しました。堰堤は丹那(たんな)トンネルの3倍以上にあたる延長24キロ、直径4.5メートルの水圧大隧道が地下40~70メートルを通るという難工事でした。それにもかかわらず、わずか2年間の短期間で完成しました。これは世界の土木界に新記録として残りました。
さらにもうひとつの特徴は、工事のために使用した資材、機械類(水圧鉄管・水車発電機等)のすべてを国産に求めたことであります。まさに日本工業の名誉にかけての感がありました。
ところで、これらの資材や機械類をメーカーが事業主に納めるときの見積もりは予想以上に値引きされていました。野口氏は「ムチャに値を引かしてはいけない。もっと値を上げてやりなさい。」ということでした。メーカー側は「値を下げれば買おうというのが普通なのに、反対に値を上げて買う人は初めてだ。」と感激したそうであります。

  • 水圧鉄管路

鴨緑江(アムノック)開発・水豊(スープン)ダム
世界の奇跡

赴戦江等の河川の開発に成功し、人口18万人に及ぶ興南の化学工業都市を建設した野口氏の実業家としての生涯は、今やようやくにして、大成期に入ったと云えます。
ここに、野口氏の大手腕に依存すべき一つの大事業が残されました。それは、朝鮮と満州国(中華人民共和国)の国境を貫通する鴨緑江の開発であります。
鴨緑江は、その流域が6万平方キロもあって、九州の面積よりずっと広く、水の量も年平均毎秒800立方メートル以上あって、日本最大の河川の4、5倍は優にある河です。
国際河川である鴨緑江の開発には、相当の面倒があることも予想されましたが、ともかく実地調査をすることにしました。ダムをつくるなら川筋のどこにでもつくれるし、水量は豊富なので、少なくとも200万キロワットぐらいの電力が期待でき、非常に有望でありました。
開発計画は、海抜500メートルから海面に近いところまで、約500キロメートルの間に7つのダムをつくり、鴨緑江を貯水池の連続にすることによって総計200万キロワットの発電施設を作るという膨大な計画でした。
この7つのダムの内どれを最初にやるかということになりましたが、水豊ダムから着手することになりました。
水豊ダムは、河口より約120キロ、新義州(シニジュ)、丹東(タントン)より約80キロの上流にあり朝鮮側(朝鮮民主主義人民共和国)と満州側(中華人民共和国)の両岸にまたがる幅900メートル、高さ170メートル、貯水池の面積は345平方キロで琵琶湖(びわこ)の半分、霞ケ浦(かすみがうら)の倍に当たり、人造湖としては、北米ボルダーダムに次ぐ世界第2の規模を誇るダムになりました。
発電所内に設置された10万キロワットの発電機は世界最大の発電機でした。
建設中のダムを見学したある人物は「1941年のはじめであった。建設中の水豊ダムを見学した。当時はすでに第2期工事を終え、間もなく発電するまでになっていたが、その規模、設備ともに日本人離れがしており、いずれの点から見ても世界的大事業だと思って感嘆した。今さらながら日本人として、世界に誇る事業のひとつを遂行した野口さんの着眼の広さ、腹の太さ、実行力の偉大さに心から敬服した」と語っています。
このようにして、水豊ダムは完成し、豊かで安い電気を手に入れることに成功しましたが、鴨緑江の水は分水嶺を一挙に落下して電気を起こしただけでなく、発電所を出た水は、下流において利用され1万数千ヘクタールの水田は開墾され、さらに下流に至っては興南の工場用水となりました、それだけではなく貯水池には淡水魚が養殖され、貯水池周辺の高原地帯には牛や豚の牧畜が行われるようになりました。

また、従来、交通不便のために放置されていた木材が貯水池工事用インクライン鉄道を利用して開発され製材されていきました。
ところで、アメリカでTVA(テネシー河流域開発)が行われたのは1933年、当時のルーズベルト大統領のニューディール政策によるものでありますが、日本においてはすでにTVAに先立つ数年前の1924年に朝鮮において日本式TVAがスタートを切ったことになります。
興南(フンナム)工場を中心とする一大化学工業地帯に建設・水豊(スープン)ダム及びその流域の総合開発がそれです。
朝鮮動乱終結後、米国の報道機関はこの事業が野口遵という一人の実業家と、そのグループの手によって成し遂げられたことは奇跡に近い」と世界に紹介しました。

  • 水豊ダム