私の履歴書ー宮崎輝12. 事業の開拓

原料からの一貫生産体制の確立で、カシミロンの体質は確実に強まった。アクリル繊維では、トップの座を固めたといってよい。しかし、これだけでは十分でない。レーヨン、ベンベルグなど再生繊維の成長は、もはや大きな期待はもてないし、どうしてもカシミロンに次ぐ第2、第3の柱づくりが必要だった。
問題はどんな事業を手がけるか、ということである。私の基本的な考え方は、合繊メーカーとしての地位をさらに強固にし、一方で繊維以外の分野にも進出して、総合力をつけることであった。
そこで長期戦略を担当する調査室のスタッフと、新規事業についての勉強会を始めた。私はそのメンバーに入社数年の若い人ばかりを集めた。彼らなら既成概念にとらわれず、フレッシュな感覚でアイデアを出してくれる、と考えたからだ。
事実、彼らは精力的に動き回り、繊維、非繊維を問わず、事業の将来性、旭化成の参入の可能性などについて、徹底的に調べてくれた。
勉強会は2年近く続いたが、私は昼間忙しいので、集まるのはいつも夜だった。東京・芝の社員寮で、深夜までディスカッションしたものである。
その結果、段々と輪郭が絞られてきた。つまり、繊維ではナイロン、石油化学では合成ゴム、まったく新しい分野としては建材の3事業が、浮かび上がったのである。
当時、わが国は高度経済成長の開花期を迎えつつあり、世間では電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビを「三種の神器」と呼んでいた。うちの若いスタッフは、これをもじって3事業を「三種の新規」と言っていたが、実にうまいネーミングであった。
まず初めに企業化に乗り出したのは、ナイロンである。周知のようにナイロンは世界で最初に工業化された合成繊維で、わが国でも戦後、海外から技術導入を図り、東洋レーヨン(現東レ)、次いで日本レイヨン(現ユニチカ)が生産を開始していた。旭化成は後発になるわけだ。
旭化成もかつてナイロンの成長性に着目して、企業化を検討したことがある。1950、51年のサランの技術導入時である。そのころ、ナイロンとサランを同時に企業化できる力はあった。しかし、すでに述べた通り、サランの自社技術があったため、ナイロンを見送った経緯がある。
もしあの段階でナイロンを企業化し、その後ポリエステルに進出していたら、もっと早く体力のある企業に育っていたと思う。
ところで、ナイロンを企業化するに当たっての役員会の空気は、厳しいものであった。先発2社がすでに市場を押さえているのに、あえて乗り出すことはない、というわけである。カシミロン、アクリロニトリル・モノマーと、相次いで新規事業に進出した直後だけに、あまりにも急ピッチな拡大に不安がる役員もいた。
しかし、私はむやみに事業を拡大しているわけではない。事前に十分調査したうえで決断している。
従って、ナイロンの企業化を変えるつもりはなかった。しかも、先発各社が手がけていたナイロン6ではなく、高品質のナイロン66を生産しようと考えていた。これなら後発でも市場が開拓できる。もっとも、40日間にわたって欧米の実情を調査した結果、ナイロン66の原料入手はむずかしいことがわかり、とりあえずナイロン6から入ることにした。ただし、競合を避けるため、当初はタイヤコード用に絞って参入することにした。
ようやく社内のコンセンサスが得られたので、重合関係を西独のツィンマー社から、紡糸以降を米国ファイヤーストーン社から、それぞれ技術導入し、1963年4月、延岡で日産6.2トンの工場建設に着手した。操業を開始したのは1964年2月からである。
その後、衣料用やインテリア、産業用資材などにも需要先を開拓していったが、1970年6月には待望のナイロン66繊維「レオナ」にも進出した。
66の原料は6の原料に比べ製造コストが高く、企業化しづらいといわれていた。しかし、旭化成では、あとで詳しく述べるが、イオン交換膜を使ってアクリロニトリル・モノマーから低コストの原料を製造することに成功、企業化が可能になったのである。
今ではナイロン6とナイロン66を合わせたナイロンの生産量は、日産164トン、業界第2位の地位にある。
なお、前年の1969年6月にはポリエステルの生産も始め、これによって3大合繊をすべて持つことになった。
それにつけても、経営者というのは、決断の時機と、どんな事業を選択するか、この2点が極めて大切であると思う。

  • ナイロン工場(1965年頃)
  • 建材松戸工場(1963年)
  • 合成ゴム工場(川崎 1965年)