社史編纂通信 vol.6 2020年5月旭化成の源流と起業家、野口 遵

常に時代の要請に応え、新しいものを生み出してきた旭化成グループ。創業当時からのDNAは、今日にはグループバリュー「誠実・挑戦・創造」に受け継がれています。

源流は水力発電と窒素事業

電気技師であった野口は、電気を使って、社会の必需品を生産することを目標としていました。1906年、曽木電気を設立、鹿児島県に水力発電所を建設しました。この電力を活用して空気中の窒素とカーバイドを反応させてアンモニアに変換し、石灰窒素肥料までを一貫生産する日本窒素肥料を興(おこ)しました。「最善な生活資料を、豊富にかつ廉価に供給する」という企業使命の第一歩でした。この使命は、現在のグループ理念「世界の人びとの“いのち” と“くらし”に貢献します」に受け継がれています。

1908年、曾木電気と日本カーバイド商会が合併。本社は大阪。

  • 五ヶ瀬川電力 五ヶ瀬川発電所(宮崎県)

祖業は化学事業、カザレー式アンモニア合成

野口はイタリアで化学者のカザレー博士と出会い、1921年「カザレー式アンモニア合成法」の特許を取得します。欧州から帰国した野口が、工場の敷地探しで延岡※1を訪れたのは、1922年でした。アンモニアの製造には、豊かな水と空気、大量の電力が欠かせません。当時の延岡は見渡す限りの田園地帯が広がっており、延岡を流れる五ヶ瀬川の上流では発電所が建設中でした。愛宕山の頂上※2に案内された野口は、ステッキで薬品工場のあたりを示してぐるりと輪を描き、「これくらいの敷地がほしい」と言った話が伝わっています。

  • 取得した延岡工場敷地全景(旭絹織 1926年)

1923年10月※3、日本窒素延岡工場でアンモニアの合成に成功します。その後、延岡には相次いで工場が建設され、一大工業地帯へと成長していきました。

  • アンモニア合成工場 混合ガス圧縮機(延岡)

※1 『坊ちゃん』(夏目漱石著)に「うらなり」の転勤地として延岡が出てきます。
※2 東京本社30階の展示コーナーは、愛宕山頂上を想起して”Hillside Gallery”と名付けています。
※3 1923年JR日豊本線が開通し、延岡駅が落成しました。

創業は繊維事業、レーヨンと銅アンモニアレーヨン「ベンベルグ」

絹のような光沢を持ち人絹(じんけん)と呼ばれたレーヨンを安く提供するため、1922年5月に旭絹織が設立され、野口は取締役として繊維事業にも関わることとなりました。旭絹織は、ドイツのグランツシュトフ社からレーヨンの大規模製造技術を導入し、大津の膳所工場で製造を開始しました。琵琶湖畔にある工場は、大量の工業用水を確保することができ、また市場の大阪、加工地の京都や北陸に近く隆盛を極めました。
野口は、アンモニアの有効活用のため、1928年にドイツで開発されたベンベルグ絹糸の特許取得の契約を結びます。1931年、延岡で「ベンベルグ」の操業を開始しました。延岡ではレーヨン工場も1933年に稼働しています。

レーヨンは2002年3月に事業撤収

  • レーヨン再繰作業(旭絹織 1928年頃)
  • 野口 遵(のぐち したがう)

1873年、金沢生まれ。1896年、帝大(現、東京大学)電気工学科卒業。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた後は、世界に誇る化学工業都市の建設を目指して朝鮮半島に渡る。北朝鮮にある水力発電所は現在も稼働している。「電気化学工業の父」とも称される。1944年没、享年72歳。