社史編纂通信 vol.8 2020年9月旭化成の興隆と開拓者、宮崎 輝(後編)

常に時代の先を読み、豊かなくらしを実現するために事業を展開してきた旭化成グループ。挑戦するDNAは宮崎輝によって大きく開花し、現在の旭化成グループの事業領域の基盤となっています。

水島コンビナートの建設

旭化成は延岡を出発点に、旭ダウの鈴鹿・川崎・富士と生産拠点を広げていきましたが、基礎原料から自社で生産するために、石油化学事業の本丸ともいえるエチレンセンター建設の計画がたてられました。これは当時の売上高に匹敵する1000億円近い投資を必要とする、社運を賭けた計画でした。

当初は単独で建設する予定でしたが、三菱化成工業が同じ水島地区での建設を発表、通商産業省(現、経済産業省)の指導により共同で建設することとなりました。
1972年、エチレンの生産を開始しました。

  • 1972年、トップ会談で握手する、三菱化成社長の篠島秀雄氏(左)と宮崎さん

高度経済成長と事業の多角化

1970年代から80年代にかけて、石油化学工業を本格化するとともに、事業の領域も住宅、医薬・医療、エレクトロニクス事業などの未経験の分野に展開していきました。

住宅事業は、1972年に旭化成ホームズを設立、「ヘーベルハウス」Dシリーズの発売を開始し、性能を進化させるとともに、「二世帯住宅」「共働き住宅」「ペット共生住宅」などお客さまのライフスタイルに対応した、ハード面だけでなくソフト面の提案も行い、安全・安心で快適な住まいを目指して、「ロングライフ住宅の実現」を宣言しました。

  • ヘーベルハウスDシリーズ

医薬事業はかねてから資本参加をしていた東洋醸造を1992年に合併し、両社の技術や販売網などに相乗効果をもたらしました。医療事業については「ベンベルグ」中空糸を用いた人工腎臓を開発し、1974年に販売を開始しました。人工腎臓の開発で得られた膜技術は、血液浄化をはじめとして、さまざまなろ過技術に応用されていきました。

  • 東洋醸造と合併したころの医薬製品
  • 旭メディカルの製品

電子部品事業は、1973年にエアバッグの衝突センサーとしてホール素子の応用研究から始まりました。1980年代には本格的に生産を開始し、電子コンパスの技術などにつながっています。LSI事業は1983年に旭マイクロシステムを設立し、カスタムLSIに焦点を絞り、厚木で製造を行っていましたが、1993年、当時の営業利益の約2倍である500億円を投資し、延岡に工場を竣工しました。

  • ホール素子
  • 延岡のLSI工場

衣食住の総合メーカーを目指して

アンモニアの合成を祖業とし、1つの製品の技術を次の製品の技術につなげることで拡大を続けてきた旭化成は、化合成繊維、合成樹脂、合成ゴム、食品、建材、住宅、医薬品、医療機器、エレクトロニクスまで、衣食住に関わるさまざまな分野に進出しました。

健全な赤字部門を黒字にする努力が企業の活力につながると信じ、科学と英知による革新で新しい分野にも果敢に参入し、社会や環境の発展に貢献できる、多角化に成功した企業へと成長しました。

  • 宮崎 輝(みやざき かがやき)

1909年長崎県生まれ。1961年に52歳で社長に就任。1972年にワシントンで行われた日米繊維交渉では日本化学繊維協会会長として、政府間協定による輸出規制を阻止するために奮闘、1981-83年には、「増税なき財政再建」を目指す、第二次臨時行政調査会委員を務めた。1992年没、享年82歳。